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ちくま大百科

【その他】戸倉上山田温泉

所在:千曲市戸倉・上山田温泉

歴史明治元年若林才兵衛が千曲川下河原で温泉を発見しましたが千曲川洪水で湯出湯脈が壊滅しました。その後も住民は温泉発掘に努力しましたが、千曲川の洪水にあい湯脈を確保することが困難でした。明治17年下戸倉の高野直次郎が温泉掘削の願いを県に願書を提出するが洪水が絶えないとのことで許可が降りませんでした。

明治20年代に入り酒井醸造の次男の量之助が私財をかけて温泉採掘に努め、明治26年ついに千曲川の向島で温泉採掘に成功しました。これが戸倉温泉のスタートです。

遅れること10年。明治36年子供達が捕らえた亀を放すと度々戻ってきました。亀のいた窪地を掘ると湯の出るのを確認しました。これが上山田温泉の始まりです。この源泉はのちに「かめの湯」と命名されました。

また、明治元年から大正3年にかけて大小合わせて40回ほどの千曲川の洪水が発生していることからも温泉開発は苦難の連続でした。

明治21年信越線屋代駅が開業(信越線全線開通は明治26年)。大正3年大正橋が開通(永久橋は昭和2年)。明治45年戸倉駅の開業と交通網も整備されました。

大正期は、旅館に泊まり自炊が主で湯銭を払って湯に入りました。大正10年戸倉温泉笹屋、國楽館が内湯を設置。翌年には上山田温泉の旅館も内湯を始めました。

昭和9年陸軍宇都宮病院上山田転地療養所(前の国立長野病院)が開院、昭和20年前後には東京からの学童疎開の受入を行いました。昭和40年代旅館のビル化が盛んに行われ、団体客が主であり、「善光寺詣りの精進落とし」「美肌の湯」として賑わいました。周辺も戸倉上山田ヘルスセンター(後の白鳥園)の開業、城山山頂に遊園地が開設される等「信州の熱海」といわれ一大観光地となりました。

その後旅行形態が変わり団体から個人へ、鉄道から乗用車へとなってきました。最盛期には旅館110軒、収容人数1万人、芸奴数400人を数えました。昭和54年には140万人の観光客が訪れました。

昭和60年には、隣接して「千曲川萬葉公園」(別途説明)が整備されています。

泉質・効能単純硫黄泉・単純硫化水素泉・弱アルカリ性・無色透明 pH8.4(肌に良い)。
神経痛・リウマチ・肩こり・腰痛・脚気・痛風・皮膚病・外傷・気管支炎など。 
地層の間を通って地下水が暖められる非火山性温泉。

主な施設足湯、温泉資料館、山口洋子展示館、射的、親水パーク、フィッシング

祭り・行事牛にひかれて善光寺詣り(5月)、温泉夏祭り(7月)、千曲川花火大会(8月)、温泉盆踊り(8月)、外湯めぐり七福神、朝市(女将の会、農村部有志)

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