ちくま大百科

神社・仏閣延喜式登載の神社/千曲市内

古事記には日本国内の神社が数多く記載されていますが、全国の古神社をあらかた記載しているのが延長5年(927)に成立した延喜式です。この延喜式に記載されているのが式内社で、更級郡には11座(大1座、小10座)、埴科郡は5座(全部小社)あります。

神社・仏閣粟狭神社/千曲市屋代

平安時代の延長5年(917)に編さんされた「延喜式神明帳」にも記された「式内社」で、屋代地区では、最も古い神社です。建武の時代(1334年頃)、一時、信濃国の守護所が置かれた船山郷9ヵ村の総社で、住民の崇敬も厚かったようです。旧本殿と云われる建物は、正応年中(1288年)以前に建てられたものです。そして拝殿に続く本殿は、ヒノキづくりの唐破風を配した1間社流れの屋根をもつ建物です。慶応2年(1866)の建立。本殿は、当時、盛んだった立川流2代目 立川和四郎富昌の弟子、池田文四郎(長野市妻科)の作です。精細、流暢に彫刻により一段と本殿の荘厳さをひきたたせています。7年に1度の御柱大祭が開かれています。

神社・仏閣須須岐水神社/千曲市屋代

屋代における産土(うぶすな)の鎮守が始まりで、水の神様、水の守護神として江戸時代は屋代堰下(せぎしも)18ヵ村の総社でした。歴史は古く「祝神社」と呼ばれ、格式ある「延喜式内社」だったという記録もあります。滋賀県、日吉神社の祭神「大国主命(おおくにぬしのみこと)=山王権現」を観請して、「日吉山王(ひえさんのう)宮」とも言いました。現在の地に遷座したのは正保2年(1645)ですが、寛延4年(1751)、式内祝神社の号を松代に奪われる事態となり、安永10年(1781) 「須須岐水神社」と改まりました。その後、明治14年(1881)には、由緒ある神社とされる「郷社」に指定されています。神社は天保14年(1843)の大火災で類焼しましたが、再建に際し、たまたま八幡・武水別神社の建築に従事していた宮大工、立川和四郎2代目富昌に依頼したという経緯があり、素晴らしい本殿の彫刻を見ることが出来ます。嘉永4年(1851)竣工、翌年完成しました。境内には、祝神社、高市大神社、秋葉社、天満宮、八幡社、栗島神社、疱瘡社などのお社(やしろ)があります。5月3日の伝統ある春祭りは、昔は盛大に行われ、神輿行列と共に、領主参拝の名残りとして「一つ物」という武者行列も行われました。また、7月31日の「茅の輪祭り」は暦が替わる禊の行事として古くから伝えられ、「知恵の輪」と呼んで、子供がくぐると丈夫で頭が良くなるとも言われ、今も毎年大勢の子供達が輪くぐりを楽しんでいます。

神社・仏閣雨宮坐日吉神社/千曲市雨宮

雨宮地区は、千曲市の北東に位置し、江戸時代の松代街道沿いの集落です。 (現在、国道403号バイパスが通過)この地の産土神として雨宮坐日吉神社があります。 神社は、街道に面して、境内正面に朱塗りの大鳥居が建ち、参道を進むと「黒門」と呼ぶ中門、 そして、拝殿、本殿と続きます。本殿は、社流れづくりで、千木、堅魚木を置いてあります。 また、境内にはケヤキの大木が社叢を形成して、荘厳な雰囲気が漂っています。 神社の創建は不明ですが、古くは「雨宮山王宮」と呼ばれ、祭神を日吉大社(滋賀県大津市)より勧請して、明治元年(1868)、吉田神祇官より允許を受け、現在の「雨宮坐日吉神社」に改めました。 この神社には、3年に一度4月に行われる国の重要無形文化財「雨宮の御神事」が伝承されています。

神社・仏閣観龍寺/千曲市森

・信濃三十三観音札所六番 大同年間 平安時代初頭(806~809年)坂上田村麻呂が東征のおり、その妻高子(こうし)が夫の戦勝を祈願して創建したと伝えられています。その後、江戸時代に慈岸和尚が現在地へ再建中興したと伝えられています。 ・観龍寺の三門は珍しい増長天(南方)広目天(西方)を安置した二天門です。本尊の千手観音菩薩と聖観音菩薩・十一面観音菩薩、これら三体は県宝です。脇侍「不動明王」は市宝に指定されています。本尊の木造千手観音菩薩(県宝)・不動明王(市宝)(今在る物はレプリカ)の2体は盗難に遭い行方不明になっています。 ・内陣には、その他にも数多くの仏像が安置されています。毘沙門天・風神・雷神・二十八部衆は千手観音菩薩の眷属(けんぞく)で千手観音菩薩に帰依する人々を守護します。金剛力士・梵天・帝釈天・四天王・吉祥天など三十部衆。像高は40~50cmです。 ・観龍寺一帯は自然探勝園となっていて寺庭にはあんずの花より少し遅く咲くさくらの花が見事です。

神社・仏閣興正寺/千曲市森

建治年間(1275~1278)に天台宗の寺として倉科に建立され、その後生萱大城山麓に移転、さらに弘治元年(1555)現在地へ移転しました。天正2年(1574)衰退していた寺を再興したのは、大本山増上寺法王で、天台宗から浄土宗に改宗されました。総門(参道の最初にある門)は黒塗りの冠木門、三門は薬医門、弘化2年(1845)の建造です。薬医門は参道から石段を上がると子持ち龍の三門として知られています。龍は本尊の守り役と言われています。三門の建設と龍の彫刻は、立川和四郎富昌の作です。 本堂内に掲げられた「興正教寺」の大額は、松代8代藩主真田幸貫公の自筆です。また本山増上寺の墓地に祀られていたもので徳川六代将軍家宣、九代将軍家重の灯篭、文化13年(1816)作成の当麻曼荼羅(たいままんだら)が所蔵されています。(奈良当麻寺に伝わる極楽浄土の図)その他、寺宝の中には安藤広重(鏡台山にかかる月)や歌川国芳などの浮世絵が相当数所蔵されています。

神社・仏閣大日堂/千曲市倉科

松代初代藩主 真田信之公の次女まさ姫は「見樹院」を建立。見樹院は、父真田信之公より倉科に知行300石を授かって、清涼院の西に屋敷を構えていました。また、藩士守役 小山武衛に命じて大善寺を建立開基し、本尊として大日如来を安置しました。その後、明治6年(1873)大政奉還での神仏分離令により大善寺は廃寺となり、大日如来は倉科に寄付され、明治8年(1875)大善寺の復元として小山文三郎が一宇を建て、大日如来を安置しました。人々はこのお堂を大日堂と呼ぶようになりました。

神社・仏閣妙音寺/妙音寺

奈良時代末期~平安時代(782~806年)坂上田村麻呂が征夷大将軍になり奥州に赴く時に創建されたと伝えられています。 寛文12年(1672)衰退していた寺を復興したのが初代松代藩主、真田信之の娘(まさ姫)見樹院で、再建、中興開基となり、見樹山福昌寺と称しました。この時より六文銭の紋がつけられました。慶応2年(1866)火災で焼失し、御堂は再建されるも荒廃し、明治16年(1883)森の禅透院の末寺になるに及んで、妙音寺と改め、再興されました。

神社・仏閣満照寺/千曲市 埴生(小島)

室町時代大永2年(1522)上野国碓氷群秋間の第三世夫山と屋代越中守政国とで、総田を開山、政国を開基とし、日本曹洞宗の禅寺を一重山山麓の埴科郡小島村(現千曲市小島)の地に開きました。 有明山を背に姨捨山に対していたことから「明月山」とし政国が祖父満照にちなんで「満照寺」とつけました。近世になり宝永元年(1704)江戸幕府の御天領としておちつき、六世保厳総天が満照寺の基盤を固め中興といわれました。

神社・仏閣治田神社(下の宮)/稲荷山(元町)

桑原に上の宮があり、稲荷山は下の宮と呼ばれています。 歴史は古く西暦463年(古墳時代)に創建されたと伝わり、平安時代に編さんされた延喜式神名帳に、治田神社の名が載っています。戦国時代には治田庄更級郷(はるたのしょうさらしなごう)の総鎮守として崇敬され、明治には県社となった格式の高い神社です。 祭神 治田大神(はるたのおおかみ) 事代主命(ことしろぬしのみこと) 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀り、五穀豊穣を願う「農の神社」=地域の氏神様として親しまれています。 境内には伊勢社・北野天満宮・高市社など多数の社があります。 その中には、享保18年(1733)京都から勧請された祗園祭の祭神である津島宮(旧八坂社)があり、稲荷山祇園祭の神輿も祀られています。春と秋のお彼岸の中日には、東から昇った太陽が鳥居の中心を通って拝殿を照らすのを見ることができ、パワースポットとして注目されています。春の桜、夏の祭り、秋の庭花火、朝夕の散策コースにもなっており、県外からの参拝客も多くなりました。

神社・仏閣極楽寺/稲荷山(上八日町)

本尊は阿弥陀如来で両脇に観音菩薩と勢至菩薩が配置されています。創始は佐野で開山され、その後大田原、次に小坂へと移った歴史があります。天正10年(1582)の稲荷山城築城の際に鬼門除けとして小坂から五日町(現在の中町)に移されましたが、たびたび千曲川の洪水被害に遭い、寛永19年(1642)に現在地の上八日町に移転しています。極楽寺のシンボルとも言える袴腰の鐘楼は流失することなく移築されて、天井には「天正十一年須崎三河守建立」と書いてある「棟札」が残っています。弘化4年(1847)の善光寺地震にも耐えた鐘楼は、稲荷山最古の建造物として現存しています。 また、境内には樹齢300年以上とされる欅の巨木があり、鐘楼と並ぶようにして立っている姿は必見です。

神社・仏閣長雲寺/稲荷山(荒町)

平安末期の寿永3年(1184)、篠山中腹に開山されたと伝わっています。その後山火事で焼失し、天正17年(1589)に現在地の荒町に再建されました。江戸時代の正徳5年(1715)、上田藩家老久松定賢により伽藍が再興されて、京都仁和寺の直末寺となりました。本尊の五大明王【不動明王・隆三世(ごうさんぜ)明王・軍荼利(ぐんだり)明王・大威徳(だいいとく)明王・金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王】と愛染(あいぜん)明王を、京都醍醐寺より拝領しています。 その後の江戸期は、稲荷山の豊かな経済力が格式ある寺を支えて祈願寺として多いに賑わいましたが、弘化4年(1847)の善光寺地震で焼失してしまい、本堂は明治20年(1887)頃再建されました。 国の重要文化財(明治39年指定)である木造愛染明王坐像は、本堂脇の収蔵庫に安置されています。本像は寛文13年(1673)京都の仏師久七の秀作です。ヒノキ材寄木造り、三眼六臂で開口して歯牙をあらわすと云う忿怒相で、彩色が施されています。 本寺は、がん封じ祈願寺として参拝者があり、秋になると藤袴が咲き誇ります。 千曲市森地籍にある信濃三十三観音の6番札所観龍寺の御朱印寺でもあります。

神社・仏閣稲荷山諸聖徒教会/稲荷山(治田町)

日本聖公会に属する教会で、明治28年(1895)にカナダ人宣教師ウォーラー司祭によって、更級郡稲荷山町に伝導が始まりました。 大正14年(1925)に稲荷山幼稚園を設立して、この地初めての幼児教育が開始されました。現在の聖堂(礼拝堂)は昭和8年(1933)に建てられたもので、教会堂としては長野県初の鉄筋コンクリート造りでした。屋根は赤い瓦で葺いてあり、屋根の斜面中央に大きな白い十字架が描かれています。 見たことのない西洋建築の教会に、当時の人はさぞ驚いたことでしょう。稲荷山幼稚園は、平成29年(2017)から稲荷山くるみこども園(幼保連携型認定こども園)となり、引き続きキリスト教の精神に基づく幼児教育を行なっています。

神社・仏閣治田神社(上の宮)/桑原字宮沖(東区)

創建年代は明らかではありませんが、平安時代初期頃、四宮庄の支配者四宮氏の勢力によって篠山の支脈治田山に創建され、応永7年(1400)大塔合戦の災禍により炎上しました。永享の乱(1435)の後、土豪桑原幸光による桑原庄成立の時、今の地に社殿が奉遷されたと伝えられています。 明治6年(1873)の神社調書には、更級郡治田庄桑原郷桑原邨鎮座式内治田神社として、正殿は諏訪下社の建御名方命、また相殿にはその妻である八坂刀売女命、五穀の神・蚕の神である保食神の届け出があります。 古社地には、祠(ほこら)があり拝殿礎石、杉並木の大門跡が現存しています。また、稲荷山に下の宮があります。

神社・仏閣佐野薬師/桑原(佐野)

桑原地区の山すそにある薬師堂。平安末期、医王院建立が開山とされています。本尊は行基作と言われる薬師如来で、薬壺(やっこ)を持ち煩悩や病苦を癒してくれます。特に眼病に霊験あらたかで、手前の薬師池には身代わりとなった片目のドジョウが住むという言い伝えがあります。200余段の石段を上ると仁王門があり、弘法大師の弟子の円仁作と伝わる金剛力士像が安置されています。度重なる火災で、本尊は炭化しているが、頭部と胸部は峻厳な姿態を残し名作を思わせるものがあります。佐野薬師の祭りには佐久間象山の幟旗が上がり、参詣者の中にはこの幟に拝礼する人もいたそうです。

神社・仏閣龍洞院/桑原(小坂)

七堂伽藍が整った曹洞宗の古刹。本尊は釈迦三尊坐像。 寺伝によると、室町時代(1400年頃)小坂の観音堂に宿泊した高僧が龍王と秋葉の二神の夢を見て、当地の土豪桑原左近太夫がその教えに感動して寺を建立し、「龍燈院」と名付けたのが始まりとされています。 火防鎮護の寺として有名な可睡斎(静岡県)の末寺でもあります。 美しい庭園でも知られ、時折茶席なども設けられます。 この寺の参道の一部に「龍洞院架道橋」があります。 明治33年(1900)国鉄篠ノ井線が開通し、線路下を通る道を確保するために煉瓦作りのアーチ橋が作られました。 現在も龍洞院参道として使われ、ノスタルジックな雰囲気を漂わせています。 平成18年(2006)に国の登録有形文化財に指定されています。

神社・仏閣田原神社/桑原(大田原)

鎌倉時代(1229年)、京都の公卿藤原親信がこの地に移住して松林姓を名乗り暮らし始めました。松林一族の氏神として三嶋神社を創建し、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神としました。明治13年に大田原の産土神として田原神社に改称し、山の神である大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀っています。その社殿はもう一つの建物に覆われている珍しいものです。 神社入り口には樹齢200年を超える欅があります。「杉抱き欅」と呼ばれ非常にめずらしいもので、千曲市の保存樹木に指定されています。

神社・仏閣武水別神社 神社の由来と本殿/八幡

御祭神は武水別神社の大神(紀元前214~156年頃御鎮斎)。その後安和年間(968~970年)京都岩清水 八幡宮から誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され相殿に棒斎されました。 延喜式に名神大社として記載されており、延喜元年編集の歴史書「三代実録」によると貞観2年(862年) 従5位下、8年従2位の感懐を受け、9年には官社に列したとあります。 戦国時代から江戸時代諸武将の尊崇が高く慶安元年(1648年)には徳川幕府から朱印地200石を与えられ ていました。明治時代に入り郷社、明治41年に県社に昇格、現在は神社本庁別表神社ています。 お参りする人は多く、松本あたりから新潟県の一部の人々の信仰を支えています。 武水別神社の「武」 は戦いの神様、現在は交通安全の神様でもあります。「水別」は農業の神様であり、千曲川の洪水を抑える神様でもあります。 比咩大神は国家鎮護・航海交通安全の守護神です。 古くは木曽義仲から武田信玄、上杉謙信の参拝もありました。毎年12/10~12/14に行われる大頭祭(新嘗祭)頭殿さん・おねりはこの地方随一のお祭りで善男善女が大勢集まり来ます。 ①三間造りの大きな本殿②立川和四郎の見事な彫刻③本殿裏に回れる珍しい廻拝式の本殿等が有名です。 江戸時代文化7年(1810)と天保13年(1842)の2度の火災で本殿他主要社殿焼失、天保13年再建完成、 嘉永3年(1850)白木造杮葺(こけらぶき)、昭和47年(1972)出雲大社と同じ「外削ぎ」千木(ちぎ)と5本の鰹木(かつおぎ)が載せられた銅板葺きとなり、神社の聖性を象徴する屋根となりました。 神社のお宝銅製灯籠(県宝 昭和15年指定)・伎楽面木造金剛士&伎楽面木造獅、金銅製六角釣灯籠 [江戸時代初期製](以上市有形文化財)・武水別神社社業(県宝 天然記念物指定昭和40年)

神社・仏閣武水別神社周辺の神々 境内本殿回り/八幡

武水別神社には主祭神を祀る本殿と共に、関連の神々、摂社・末社がたくさん祀られています。 主な神々の功徳・御利益を紹介します。これらの神々は市内一円の宮宮にも祀られています。

神社・仏閣武水別神社周辺の神々 南側境内の神と施設/八幡

室町時代建立、昭和30年台風で倒壊したが、昭和45年6月再建されました。 太鼓橋(下馬橋)神と神に一番近い頭人のみが渡れる橋です。 「以下は南境内施設」

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