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ちくま大百科

人物倉島 重友/千曲市倉科出身

日本画家。昭和19年(1944) 画家の倉島丹浪の三男として倉科に生まれました。 昭和46年(1971) 東京芸術大学院を修了。同年、院展に出品し、初めての入選。その後、平山郁夫に師事し、さらに、研鑽を積みました。昭和49年(1974)日本美術院院友へ推挙され、院展を中心に出品して、奨励賞、日本美術院大賞など数々の受賞を重ねました。 平成24年(2012) 再興第97回院展で、「合歓」(ねむ)が内閣総理大臣賞を受賞。 同作品は千曲市が所蔵。 現在、千曲市名誉市民(平成30年9月より)、日本美術院同人、広島市立大学名誉教授などの要職にあって、旺盛に活動を続けています。茨城県龍ヶ崎市在住。 ・取材協力:信濃美術館

人物宮坂 喜昌/千曲市埴生

幕末明治時代の寺子屋師匠。 文化2年(1805)正月27日に鋳物師屋に生まれました。明治23年(1890)7月20日没、享年86歳。 喜昌は、幼少から学を好み、和歌狂歌を寂蒔の斎藤月彦に、算数を須坂藩士土屋愛親に学び長ずるに及んで学殖ますます深く博し、国典によって和歌もきわめ本居宣長に私淑しました。また独学で制度文物や治乱沿革について造詣を深め、なお 算数においては点竄(テンサン)円理の術に至るまで蘊奥(ウンオウ)を極めてあますところがありませんでした。寺小屋をひらいて読書、算数を教えました。門弟は前後数百人にのぼり名声頗(スコブル)あがりました。著書には開港風波録十巻、行余漫筆三十五巻はじめ数多い。遺稿十二巻は「麓の塵」と言って内に和歌を含むが、葛尾によってこの歌は広く讃えられました。明治25年(1805)7月、門弟相謀(ハカ)って埴生小学校入り口に頌徳の碑を建てました。 尚 初代村長から13年勤めた子の東平は父喜昌の「麓の塵」から「益々埴の栄える・・・・・・」の文言から「埴生」という名前を付けたと言われています。

人物初代 市川 与平/千曲市埴生

幕末の殖産家 埴生村鋳物師屋に生まれました。豪気な性格で文久元年(1861)桑苗を栽培しました。明治4年(1871)より熊本、新潟、そのたの各県に移出販売し、埴生村を桑苗の名産地としました。明治11年(1878)業を製糸仲買販売に転じ、さらに製糸業を起こし、工場を築造し明治15年(1882)より有明社と名のり産業振興に力を尽くしました。明治26年(1893)米国シカゴ府に開設の世界貿易博覧会に出品し有功賞を受けました。

人物6代 色部 義太夫/千曲市埴生

政治家、大地主、貴族院多額納税者議員 埴科郡杭瀬下村に生まれました。大地主、豪農の5代色部義太夫義義裕(よしすけ)義江子夫婦の長男として生まれました。山寺常山に師事し官学を修めました。長野県の地券取調所出仕となり出納課付属となりました。明治17年(1884)補選で長野県会議員となり、埴科郡連合町村会議員となりました。 その後埴科郡鋳物師屋村外七ケ村連合戸長に就任し、その後長野県会議員に再選されました。 明治30年(1897)貴族院多額納税者議員に任じられました。日本赤十字社長野支部病院(現長野日赤病院)の開設にあたり多額の寄付を行いました。明治31年(1898)合資会社色部銀行を設立し代表社員になりました。

人物西村 進/千曲市埴生

園芸学者、育種学者、政治家 進氏は明治39年(1805)に桜堂に生まれました。埴科農蚕学校(現屋代南高)をでて家業の養蚕を手伝っていましたが、好きな花づくりをしたいと千葉高等園芸(現千葉大)へ進みます。東京の多摩川近く“温室村”で実地勉強した後、昭和23年(1800)桜堂へ帰り切り花づくりを始めたといいます。 花づくりといっても当時あまりやる人はなく、奇妙な目で見られたらしい。でも西村さんの努力があって、十数年たつと次第に地域へも広まり、東京向けの切り花産地の先駆けとなったといいます。 昭和3年(1928)在来の鉄砲ユリによく似た「高砂ユリ」が台湾から輸入されて人気を呼びました。 しかし進さんは花に斑のあるのが不満で、数千本咲かせた中から純白に近い物だけを選び次の年育てる方法で10年かかって純白の高砂ユリをつくりだします。しかし香りがなく、病気に弱く葉が長すぎる等見劣りしました。一年に一回しかできない交配を試行錯誤の繰り返しで終戦後、何とかよい花ができるようになります。その業績は西村鉄砲ユリを始め、カーネーション「乙女の笑」「黄色の波」「彗星」等の作出に成功しました。また 県の花卉組合長等の役職も多数歴任されました。 西村邸の庭先に地元埴科郡を中心に一般の寄付を募り竣工された、土台から6メートル以上ありそうな大きな「西村氏頌徳碑」がたっています。

人物長谷川 五作/千曲市埴生

教育者、物理学研究物 (養蚕) 埴科郡杭瀬下村、田中家に生まれました。長野県師範学校卒業後、桑原小、杭瀬下小に勤務され、その後、上京し生物学を学ばれました。松代町の旧藩士長谷川家の養嗣子となります。愛知県女子師範学校、東京府立第五中で教壇に立ちます。最後は屋代中(現屋代高校)で大正12年(1923)から昭和30年(1955)までの32年間生物教師として熱心に子弟教育に尽力されました。その間{エノキダケ}の人工栽培に着目して、苦心の末昭和6年(1931)にびん詰めによる栽培法を考案しました。今日「エノキダケ」が長野県の特産農産物になっているのは先生の大きな功績です。

人物児玉 幸多/千曲市稲荷山(元町)

稲荷山出身の元学習院大学学長 明治42年(1909)稲荷山元町の治田神社宮司 児玉家に生まれました。 昭和7年(1932)東京帝国大学国史学科を卒業し、昭和13年学習院教授となり以後、大学で教鞭をとりました。 昭和47年には学習院大学学長に就任し、名誉教授となっています。 戦後の地方史普及に多大な貢献をされ、身近には平成6年(1994)完成の更埴市史編さんの顧問として御指導をいただきました。 昭和天皇や現上皇に日本史を講義する皇室教育にも携わり、愛子内親王誕生の際には91歳で束帯姿で参列し、日本書紀の一節を朗読するなど、皇室との縁も深かったそうです。 平成19年、97歳で死去されました。

人物小出 八郎右衛門/千曲市稲荷山(上八日町)

江戸末期の天保11年(1840)稲荷山の材木商の家に生まれました。家業を継ぎますが時勢を見て蚕種製造業に転換をします。商用で横浜に行き、そこで株式組織や銀行業の知識を得て帰ってきました。 明治14年(1881)中原の和田郡平と共に、商都として栄えていた稲荷山に初めての銀行「稲荷山銀行」を設立しました。 明治20年、長野県の為替業務を扱う信濃銀行を作り支配人となります。同26年には経営難に陥った松代の第六十三国立銀行を救済するため、民営の稲荷山銀行と合併させて本店を稲荷山に移して稲荷山六十三銀行としました。 その人望の厚さから、明治14年に長野県議会議員、同36年には衆議院議員になっています。また地元への貢献も大きく、電信架設、稲荷山尋常小学校新築、裁判所稲荷山出張所建設等に多額の資金や用地を寄付しています。 明治期の商都稲荷山の発展に大きく寄与した人物です。

人物小林 五藤/千曲市稲荷山(中町)

江戸後期の寛政2年(1790)生まれ 嘉永4年(1852)没と推定されています。 本名は小林佐太郎藤原茂高で、号を五藤と言いました。 京都吉田家より烏帽子狩衣の着用を許され、のちに官職に就いています。 五藤流の流れをくむ宮彫師で、文政年間(1820年頃)から活躍し、たびたび上洛して京都御所の造営にも携わっています。 治田神社境内にある治田町や上八日町の高市社のみごとな彫刻や、川中島古戦場近くの典厩寺(てんきゅうじ・武田信玄の弟信繁の墓がある)にある閻魔大王像頭部など、いくつもの作品が残っています。

人物近藤 日出造/千曲市稲荷山

明治41年(1908)~昭和46年(1971) 漫画家 稲荷山に生まれ、本名は秀蔵。漫画家を目指して上京し、岡本一平の弟子となりました。 当時の漫画界は高名な漫画家が活動の枠を独占していましたが、昭和7年(1932)若手漫画家たちと「新漫画派集団」を結成、共同で仕事を請け負い収入を分け合う事務所を構えて、生活を安定させました。自身の政治漫画が集団にもたらす収入と面倒見のよさという親分肌により、集団のリーダーとして頭角を現していきました。 昭和8年(1933)読売新聞社に入社。政治家の似顔絵を主とする政治風刺漫画を掲載しました。これが人気となり漫画で政治を大衆に近づけたと評価されました。読売新聞社では、政治漫画の他にルポルタージュ的なエッセイやインタビューといった文章も書いています。 記者仲間では近藤について絵より文章のほうがうまいと評されました。昭和13年(1938)に読売新聞社を退職し、以降は同紙にフリーの立場で寄稿しました。 昭和39年(1964)日本漫画家協会を設立し、初代理事長となります。 平成2年(1990)稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示されています。

人物松林 天上/桑原大田原

松林天上氏は明治33年当時の更級郡桑原村大田原の農家に生まれ、桑原小学校を出ただけでしたが、書や学問が好きで、佐野のお薬師さんの灯明で本を読んでいたとか、冬は田畑に積もった雪の上に大きな字を書いて山の上から眺めて遊んでいた等の話が村人の話に残っています。 24歳で上京し、徴兵で入隊通信兵になり、その後朝日新聞社に勤め、32歳ころ渋谷辺りで書道塾を開いていました。戦況悪化で、一家は故郷に疎開食べ物に苦労したようです。食べるに精いっぱいの時代書や絵画への余裕のない時代でしたが、家を「煮雲荘(煮雲山房)」と呼び書道塾を開き、ここを終の棲家といたしました。70歳近くまでは東京、熱海、小田原、名古屋、大阪、奈良などに教えに行っていました。 篆刻は石井雙石先生、漢詩は説田桂堂、岩淵裳川、土屋竹雨等の先生に学んでおり、生涯「醴泉命(れいせんめい)」を座右の銘として臨書していました。 昭和58年4月83才でなくなりました。 昭和29(1954)年仲秋観月の碑 姨捨長楽寺に建立 昭和30(1955)日本書道美術院審査員になる *地元小学校・公民館等多数天上氏の書額有り 姨捨観光会館完成時氏の書かれた「天下の絶勝」書額は、姨捨の地が天下に比類なき天下一の景観であるとこの地を讃えています。

人物和田 郡平/千曲市八幡(中原)

和田家は元禄2年(1689)に中原において酒造業を創業し、現在まで昔ながらの手づくり純米酒『オバステ正宗』を醸造している蔵元で、現在の社名は長野銘醸です。 代々地域の文化・経済に大きく貢献していて、開眼寺の建立や善光寺・長楽寺・八幡神社などへの寄進を行っています。また村人の娯楽として獅子舞を導入し、以来お神楽の文化が現在まで受け継がれています。 9代目当主の和田郡平は、明治6年(1873)有栖川親王からりんごの苗木を下賜され、長野県初のりんご園を開園、りんご栽培を県下に広めました。 また、明治11年に発足した長野県議会の初代議員に選出されています。 明治14年には商都として栄えていた稲荷山に民営の稲荷山銀行を設立し、初代頭取となりました。のちの八十二銀行の始まりでした。 明治28年八幡尋常小学校の開設に際しては土地や建設資金を寄付し、教育に関しても惜しみなく私財を投じています。 明治39年には日露戦争の戦勝記念に当地を訪れた東郷元帥らを迎え、丁重にもてなしています。治田神社一の鳥居に立つ石碑文字は、この時揮毫した元帥の書です。 明治期、地域文化・経済に多大な貢献をした偉人です。

人物川島 芳子/千曲市八幡・中原

八幡・稲荷山地区に関係し、郡区の古老たちの記憶に残る女性「川島芳子」。 川島芳子は、明治39(1906)年6月3日に中国で生まれました。松本藩士の家に生まれた川島浪速(なにわ)の養女になったから川島姓、芳子の名も浪速がつけました。 清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女、本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)小学校から高校まで東京や松本で育ち、旧制松本高等女学校(現蟻ケ崎高校)で学び、中国に戻り、上海事変の謀略や満州国建国の工作にかかわり、第一次世界大戦期の「女スパイ」として「東洋のマタハリ」「男装の麗人」と世慣れていました。 昭和20年日本敗戦に伴い、北京で国民軍に捕らわれ昭和23年銃殺刑に処せられたとされたが省長春で、生きていたとの言も有りました。 聖高原の池から西に少し上ったところに、川島浪速の別荘「無聖庵」があり、芳子の逸話説明板があります。また中原にも、住んでいたことが有り、特に郡の大雲寺には長くいたのでしょうか? 「子供たちが大雲寺の石垣の下に集まると、戸を開けてお菓子などを投げてくれた」と古老たちの話が伝わっています。彼女が乗る馬を地元の青木なにがしという人が世話をしていたなどの話も残っています。その後中国に渡ったのでしょうか? 平成20(2008)年11月、芳子が処刑後30年間も生きていたというニュースが全国に流れました。 芳子の処刑については、短い髪だったのに遺体は髪が長く首まで巻きついていたことや、刑執行まで異例の短期間だったことなどから、当時から疑念がもたれていました。 さて、その真実はいかに。

人物松井 須磨子/千曲市八幡・中原

松井 須磨子(まつい すまこ)(1886年(明治19年)3月8日(戸籍上:11月1日)- 1919年(大正8年)1月5日)は、日本の新劇女優、歌手。本名小林正子(こばやしまさこ) 二度の離婚、日本初の整形美人女優、整形とその後遺症に苦しめられながらの名演、島村抱月とのスキャンダル、俳優養成学校へ入学し念願の女優となり、日本初の歌う女優としてのヒット曲と発禁騒動、そして抱月死後の後追い自殺と、その波乱の短い生涯は多くの小説や映画、テレビドラマとなっています。 中原の和田酒造の当主和田郡平翁を明治39年有栖川宮殿下が訪ねて来られたことがあり、その時和田家の小間使いで12,3歳の目の細く切れ上がった少女が殿下へお茶くみをしていました。この少女が松井須磨子であったことを知る人は少ないと云われています。 1913年、島村抱月と芸術座を旗揚げし、『復活』(トルストイ原作、抱月訳)のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となりました。須磨子が歌った主題歌『カチューシャの唄(復活唱歌)』(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードも当時2万枚以上を売り上げる大ヒットとなりました。須磨子は日本初の歌う女優となりました。 また後に流行歌となる『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞・中山晋平作曲)も歌唱しました。 1917年に発売したレコード『今度生まれたら』(北原白秋作詞)では、歌詞の中にある「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が当時の文部省により猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号となりました。

人物坂井 量之助/千曲市戸倉

下戸倉村坂井寛三郎の次男として生まれ、16才の時本家坂井家を継ぎました。量之助は、家業の酒造業だけでは満足せず、県会議員に当選、自由民権運動にも参加。明治26年量之助26歳のとき戸倉村向島地籍に着目し莫大な費用と労力を投じ、ついに温湯を掘り当て開湯式を挙げました。 その後明治31年戸倉温泉(株)を起こしました。だが度重なる洪水で苦渋を味わいます。明治35年千曲川右岸の大西地籍に第二次戸倉温泉(株)を開湯。だが4年大洪水に見舞われました。坂井家は2度破産。明治38(1905)年量之助は戸倉駅開業を待たずに没しました。

人物畑山 國三郎/千曲市戸倉

牟礼村に生まれ、畑山家の養子になります。現在の長野市千歳町で畑山鉄工所を設立、消防ポンプ等製造販売を手がけました。第3次戸倉温泉を戸倉温泉の開祖坂井量之助の後を引き継ぎ、大正5年戸倉温泉の源泉の経営権を引き受け、千曲川左岸向島地籍に開湯しました。 國三郎は自費で、近くの八王子山を崩して大土木工事を実施しました。また、戸倉駅からトテ馬車や乗合自動車タクシーを走らせ、大湯という共同浴場をつくるなど温泉発展に貢献しました。

人物宮本 虎杖/千曲市戸倉

下戸倉村中町の豪農宮本佐太郎(寺子屋師匠)と母そねの長男として生まれました。 本名 宮本道盛 通称 清吉 八郎兵衛。号は古謙・天老・晩年、利翁と云いました。居は虎杖庵と呼びました。 30才の頃、加舎白雄に入門。俳人として修行を重ねて、中央で、その存在感を高めていき、白雄が開いた「春秋庵」の一番弟子まで上り積めました。判者を許され、宗匠としての地位も得ました。白雄が展開した芭蕉復古運動とする「蕉風」を守り続けて、俳壇の第一人者になりました。地元に帰り、虎枝庵を創立しました。 多くの俳人たちが虎杖庵を訪れました。虎杖は、「名月の里 姨捨」を案内したり、句会を催すなどして、俳諧の地位を固めました。生涯を通じて、柏原の俳人小林一茶と交遊がありました。 白雄没後、寛政3年(1791)、天姥らは長楽寺に句碑「姨捨や月を昔のかゞミなる」白雄居士の遺跡を建てました。文化から文政(1804~18)の頃、全国にその名が知られました。 長楽寺に宮本虎丈の句碑があります。 「くもるとは ひとの上なり けふの月」 平井嵐窓(千曲市新田)建碑

人物大谷 幸蔵/千曲市羽尾

羽尾字仙石地区元更級中学校後の角地、石垣の左の一角に石碑が有ります。「蚕界偉人 大谷幸蔵君之碑」と刻まれています。碑は昭和26年建立で書は戦後日本の復興の基盤をつくった総理大臣、吉田茂氏です。大谷幸蔵さん(1825〜87)は江戸幕末、日本が鎖国から開国に舵を大きく切ったとき日本の貿易業の先駆者だった人です。 当時、海外に通用する日本の商品は生糸でしたから、養蚕王国だった信州から打って出ることができました。この碑の右隣、現在の寿高原食品の資材置き場が幸蔵氏の屋敷跡です。 現在は直系のご子孫は当地におらず、横浜市の能満寺に幸蔵氏一族のお墓があるそうです。 幸蔵氏は時代の先駆けとなる仕事をして顕彰碑を建ててもらうような功績を残した一方で、地元、松代藩の農民らに屋敷を焼き討ちにされた過去があります。幸蔵氏は幕末、松代藩から商才を見込まれ、商品価値の高かった絹織物や生糸などを大量に手に入れ、それを売って松代藩の財政資金に当てていました。しかし、明治維新後、政府軍側として出兵し、旧幕府軍との間の戊辰戦争で松代藩は財政を極度に悪化させ、農民への支払が滞り、農民は生活資金に窮乏しました。そのため明治3年(1870)、農民が大挙して松代藩に押し掛けた一揆「午札騒動」が起きました。 そのとき、幸蔵さんは生糸を吐く蚕の卵を台紙に張り付けた日本の蚕種を海外で販売するためイタリアにいたのですが、留守を預かっていた幸蔵さんの妻らが焼き討ちを逃れて、長男の三作さんがいた横浜の店に逃げのびたと「蚕界偉人・大谷幸蔵」に記されています。

人物瀬在 幸安/千曲市内川出身

埴科郡五加村(現千曲市内川)に昭和5年(1930)4月7日、瀬在医院医師忠幸の三男として生まれました。 屋代東高校(現屋代高校)を卒業。昭和30年(1955)年日本大学医学部医学科を卒業。昭和35年(1960)同大学院医学研究科博士課程(外科医)を終了。医学博士。 昭和40年(1965)から3年間、米国オレゴン大学心臓外科に留学。昭和45年(1970)、日本で初めて心筋梗塞の冠動脈バイパス手術に成功。心臓外科医の国際的な権威者として活躍しています。 平成8年(1996)日本大学第10代総長。その後、総長を3期務め、名誉教授となりました。 兄は(瀬在良男)哲学者で第9代日大総長となり、兄弟で日大総長を務めました。 平成27年(2015)10月、千曲市初となる名誉市民称号を贈られました。 ・著書:「冠動脈外科の進歩」、「今こそ前へ」「からだの病気」他

人物山崎 洞湖/千曲市力石

【絵師】 安永4(1775)年~天保5(1834)年 享年60歳。 江戸時代の画家、更級郡力石村に画工栄春(典備)の子に生まれました。父の影響もあって絵を好み、成長した後、江戸に出て蓁先生に画を学び、その後、狩野洞春に学び、心境著しく他の子弟を抜き師名の一字を頂き「洞湖」と号しました。その後法橋となり宮殿所々の絵を描いた。文政12(1829)年松代藩江戸邸の火災にあいその復興にあたり絵を描くことを命じられました。その後力石村の家にあって、求めに応じて多数の絵を残しました。 智識寺、見性寺、耕雲寺(坂城町)、泉徳寺(坂城町)などに多く残っています。 ※法橋 法印、法眼に次ぐ僧位を表す称号。絵師、仏師、儒者、医師などに授けた称号。

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