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ちくま大百科

人物小平 甚右衛門/千曲市上山田八坂

小平甚右衛門 天保14年(1843)~明治4年(1871) 享年29才 幼名を頼三郎といい、21才で羽場の宮原家から原の前の小平家の長女ヤヲと結婚。 小平家に入籍と同時に名も甚右衛門と改名しました。 少年時代から学問好きで働き者でした。農業に精を出し、暇になると馬を引いて川中島と上田の間 荷物を運ぶ手間稼ぎを生業としていたのです。明治2年松本藩、上田藩に相次いで農民一揆が起こりました。甚右衛門は手間稼ぎの合間に上田藩の一揆を目で見。肌で感じていました。 明治3年11月25日松代藩領民あげての一揆松代騒動(午札騒動)が起きました。 六ケ郷の民衆は丸山(上山田)周辺に集まり松代へ向かって出発した。途中村々の民衆も集まりおよそ2万人に達しました。 一揆は民衆の全面勝訴に終わったかに見えたが、12月に松代藩軍隊による騒動の容疑者として600人ほど(内上山田村22人)が召捕られ400人が入牢となった。明治4年3月26日斬罪1人、入牢10年13人、杖70が4人、笞30が6人、お叱300人以上と断罪されました。 小平甚右衛門は「一揆の頭取は私です。」と取調べに対し騒動の責任者は私一人だと言い張り続けた。その潔さは、藩の武士でも頭を下げたと言い伝えられています。 明治4年5月26日松代城北の鳥打峠の刑場で打ち首となって果てました。処刑に先立ち「子供の教育は大切なり。」と遺言を残したといわれています。重い近代の扉を民衆の手で開き、民衆のために死んだ郷土の義人、甚右衛門の死をかけた願の言葉であります。 この時、妻(や越)は首級をもらい受け帰りました。罪人が遺言を許され、首級をもらい受けるなど異例のことでした。 その後、甚右ヱ門の義侠の真骨頂は誰でも認めることでした。年を経ること久しく、昭和13年、「頒徳碑」及び「遺言碑」が上山田村羽場山伏塚の東麓に建立されました。 また、甚右衛門は妻や越と共に上山田漆原にある一族の墓に安置されています。

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