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ちくま大百科

生活・行事・民俗千曲市の方言/千曲市内

あいさ : 間 あくと : 足のかかと あばな : さようなら あんき : 安心・のんき あんやん : 兄 いかず : 行こう いじかめる : いじめる いじむさ : 食いしん坊・意地のきたない えぼつる : すねる おどける : 驚く・びっくりする おべちゃ : 風呂 おめた : お前たち おら・おらた : 私・自分、私達・自分達 おろのく : 間引く おんなしょ : 女性・女の人 がぁたく : 腕白・乱暴者・いたずら坊主 かがっぺ : まぶしい かまける : 愚痴をこぼす かやん : お母さん かんしな : ごめんね・ゆるしてね きなし : 不注意 ぎょる : 料理する(主に魚料理) きんな : 昨日・きのう げえに : 強く・固く げえもね : 無駄ごと けえる : 帰る ごしてえ : 疲れる ごた : ききわけのない ごむさい : 汚い さきおってな : 一昨日・さきおととい さきっちょ : 先端 さんざっぱら : 充分に しみる : 寒気の寒さ・傷の治療薬の痛さ ずく(ずくなし) : 意欲・根気・精魂(意欲がない) せう : 言う せく : 急ぐ せんどな : 先頃 たまげる : 驚く ちょうま : 千曲川 ちょっくら : ちょっと・気軽に ちょんこづく : 調子づく とぶ(とびっくら) : 走る(駆け足競争) はんぺた : 半分 ひっかく : 割る・折る ひね : 古い・鮮度が悪い べちゃる : 捨てる ほける : 成長する ぼこ : 赤ちゃん ほとばす : 水に浸す まてえ(い) : 残りなく・きれいに・無駄なく みぐさい : 見苦しい もおらしい : 可哀そう やだ・(やだくなる) : いやだ(いやになる) やぶせって : うっとおしい よからず : 良いでしょう よばれる : 招待を受ける・馳走になる らっちもねえ : つまらない わけえしょ : 若者・若衆 わにる : 恥ずかしがる われ(わんだれ) : お前(お前達)

生活・行事・民俗茅の輪くぐり/千曲市内

千曲市内の神社で 厄払いの行事としての“輪くぐり”の行事を斎行しているのは須須岐水神社、治田神社(下社)、佐良志奈神社、水上布奈山神社の4ヶ所です。 水上布奈山神社を除く3か所では 夏越しの大祓(なごしのおおはらえ)として行われるもので、茅(ちがや)で作った大きな輪をくぐることで、半年の間に身に付いた罪や汚れを祓い去るための行事であり、”茅の輪くぐり”と呼ばれています。 水上布奈山神社では年末に年越しの大祓として行われ 季節的に茅の無い時期に杉葉で作った輪をくぐることから“輪くぐり”と呼ばれています。 “茅の輪くぐり”は スサノウと蘇民将来の伝説が起源とされています。茅で作った輪を腰に付けたり、玄関に掲げることにより、蘇民将来の子孫として、疫病や災難から身を守ることができると信じられました。 大宝律令で正式な宮中行事となりました。やがて民間でも行われるようになり、江戸初期ごろからは 大きな茅の輪をくぐる行事に変わってきたと言われます。 本来は、一年の前半の夏越しの大祓として6月の晦日に行われるものですが、須須岐水神社と治田神社では一月遅れの7月末日に行われます。これは田植で忙しい6月末を避けた、古人の知恵であったのかもしれません。 佐良志奈神社の夏越しの大祓では、若宮、芝原 両地区の厄を人形代(ひとかたしろ)に遷し 千曲川に流す祓の儀式でありますが、祓の儀式としては、大変古い形のものと考えられています。

生活・行事・民俗鼻取り地蔵/千曲市屋代

「鼻取り地蔵尊」は一重山不動尊堂に不動尊と一緒に祀られている石像で、天正3年(1575)頃に安置されたといいます。日照りになると、これを五十里(いかり)川に放って“雨降らせ給え”と祈ったという「雨乞い祈願のお地蔵様」でした。何回も放られて鼻や手が欠けていますが、今は大切に保存されています。また、やしろ民話として語り継がれた伝説「鼻取り地蔵」も有名です。

生活・行事・民俗雨宮の御神事/雨宮

「雨宮の御神事」「獅子踊り」と呼ばれる「雨宮の神事芸能」は、雨宮坐日吉神社の春の祭礼行事です。「雨宮の神事芸能」として、昭和56年(1981) 1月 国の「重要無形文化財」に指定されました。 御神事の起源は、はっきりしませんが、神事本来の意味は、民の疫病や田畑の荒廃や元凶となる怨霊を華やかな踊りやお囃子(おはやし)で送り出すというものです。「化粧落とし」や「橋懸かり」は、怨霊で送り出すという意味で始まったものに、田畑の豊穣を祈る目的も持つようになったようです。 「雨宮の御神事」の形は室町時代の地方の風流で発達した代表的な例と云われています。 明治の初め頃まで、屋代・森・倉科・土口・生萱・雨宮の各村々が色々な役割を持って参加していました。この頃の御神事は森の禅透院の山内で、清野山城守と雨宮摂津守の位牌も前に、御神事踊りをしてから出発しました。明治23年(1890)5ヵ村の共同祭事は廃止され、雨宮地区のみで施行する現行体制になり、昭和50年(1975)から3年に1度の例祭になりました。 御神事のクライマックスは、勇壮な「橋懸かり」です。沢山川(生仁川)に架かる斎場橋の橋桁に、4頭の獅子の身体を縄で縛り、橋の上から逆さづりにして、獅子頭で川面を激しく叩き神飾りを水に流す怨霊送りと云われています。「化粧落し」(橋懸かり)は、禊の「行」と云う説もあり、激しく頭を振って、水しぶきを上げて踊る奇祭です。 祭りの最後は、沢山川を挟み、唐崎山の麓にある唐崎社で山踊りをして、神社に帰還します。 唐崎山は標高472mで、山の上には当初、武将生仁の拠城である生仁城がありました。戦国時代には、地元の豪族雨宮の拠城となり、唐崎城と改めたようで城跡が残っています。

生活・行事・民俗稲荷山祇園祭/千曲市稲荷山

江戸時代、善光寺街道の宿場町として栄え、やがて商人や職人が住む商人町として経済力をつけた稲荷山は、疫病の流行を抑えることを願って京都から牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)を迎えて祀りました。更に祇園から神輿を買い入れ、疫病退散・商売繁盛を願って毎年7月に祇園祭をおこなうようになりました。5町が順番に祭りを取り仕切る当番町制とし、この方法は現在も続いています。 明治になると北信随一の商都の祭りとして更に豪華になり、買い物客や見物人で賑わいました。 現在は7月の第3土日に開催され、御輿巡行と合わせて勇獅子(いさみじし)が舞ったり山車や稚児行列のお練りがあり、町中が熱い祭りに包まれます。 平成24年(2012年)6月、千曲市の「無形民俗文化財」に指定されました。

生活・行事・民俗民話「くわばらくわばら」/千曲市桑原

桑原西区に天神様が祀ってあります。あるとき境内の梅の木に雷が落ちました。 その時に通り合わせた桑原左近将監様が雷を見つけて大いに怒り、「天神様の大切な木にふらちを働く無礼者め」と生け捕りにして、梅の木に縛り付けて見せしめにしました。 雷は恥ずかしくなって「これからはけして桑原には落ちませんから許して下さい」と心からわびたので、左近将監様もかわいそうになり縄を解いてやりました。雷は命からがら空へ戻っていきました。 それからは、雷が鳴るたびに「くわばらくわばら」と唱えると雷は落ちない という評判が世間に広まりました。

生活・行事・民俗武水別神社・大頭祭/千曲市八幡

武水別神社の大頭祭は、国の選択無形民俗文化財で、記録に残る物でも500年近くになります。 毎年12月10日から5日間毎日、白装束を着た「頭人」、副頭人、差添人、散米役、相産米役の5役を中心にし、お馬印を先頭に齋の森神社から神社本殿まで古式ゆかしく華やかに練り進みます。祭りの目的は、今年の五穀豊穣を報告する「新嘗祭」の儀式で、練り進むことと特に5日の祭日のうち3日目12/12の一番格式の高い頭人を「大頭」と呼ぶことから、この祭りを、「大頭祭」あるいは「お練り」と呼んでいます。 この大頭祭の行列が,齋の森から武水別神社に練り進むとき、両側の家々では、豆がらを焚いて行列を迎えます。温かい火の熱が、行列の凍てついた体を温めてくれる昔からの行事,風習です。 風習で大頭祭を担う地域は、八幡・羽尾・川向の地域で約4年毎に奉仕が回ってきます。 この「大頭祭」に関して、「娘を八幡には嫁にくれるな」ということが言われたくらい出費も多く、頭人を1回やると1反の田を売るくらいの経費が懸ったと言われています。 いずれにしてもこの地方最大のお祭りであり、練りの時間には、善男善女がお八幡様の福を頂こうとわんさわんさと押しかけ集まるにぎやかなお祭りです。 この祭りは当日の大門行列、御供積みだけでなく、祭典行事だけでも、9月1日の八重注連祭、12月3日の釜清め神事、御初穎(オハッカイ)口開け祭、御初穎上げ祭等、様々な祭事が執り行われています。

生活・行事・民俗武水別神社と周辺の神々 大頭祭遥拝神社/千曲市八幡

大頭祭において、出立の儀式後,練り道(斎の森神社から本殿)と違う道を通って斎の森神社に向かいますが、この時数か所で足を止め、八幡七郷の各地の神社に遥拝し、御供を捲きます。 ①最初は辻の信号から少し西に行った所 遥拝する神社 中原神社 郡笹焼神社 高根社(峰下) ②南に進み宮川の突き当たった所 遥拝する神社   姨捨公園神社 峰 飯綱神社 大池八幡宮 ③斎の森神社入り前(南東側)遥拝する神社  東に向かい 五加諸社(中村神社・小船山神社・黒彦神社・伊勢社)  南に向かい 冠着神社 ※この後、斎の森神社社殿内にて出立の時を待ちます。 ※八幡七郷とは、八幡神社を総鎮守とする氏子地区で七郷二十二の字集落を指します。

生活・行事・民俗武水別神社と周辺の神々 齋の森神社・臼道祖神/千曲市八幡

斎の森神社は鎌倉時代に建立されたと伝わり、中世以降は諏訪大明神と言われていました。「東山道信濃路」の羽尾から郡に至る路の中間に有、川中島平に入る入口を守る神(塞いの森)として、また、武水別神社に対して道祖神を守る森、先の森であったと言われます。 鎌倉時代からでしょうか、この交通の要所地籍は八日市場と言われ、8の日に市が定期的に開催され、これより先の郡下の年貢を木曽路を越えて、大和の国まで運ぶ交易の場(米や絹などを金銭に変える場)でした。 今は大頭祭の練りの出発神社として、伝統を引き継いでいます。 境内に2基あるモダンな献灯台には「大正9年、三重県津市立会町煉瓦職人清水万吉銘」があり、昔を偲ぶ風情を残しています。(武水別神社境内に同じものがあります。) 樹齢500~600年の市指定の大ケヤキもこの神社を見守っています。

生活・行事・民俗武水別神社と周辺の神々 青海橋と北向観音/千曲市八幡

昔この小川には橋が架かっておりました。大頭祭の時には、この橋のたもとに頭人行列が 到着すると、お宮から役向きが出向いて、挨拶と行列についての問答をしました。その際、舞台を汲んで「青海波」という雅楽の曲を奏で2人舞の優雅な舞楽が舞われたことから、この橋は青海橋(せいかいばし)または問答橋と称されています。 現在はここに到着した頭人行列が旅の衣装を解き拝礼の装束になる場所です。

生活・行事・民俗おばすて観月祭/千曲市八幡

姨捨観月祭は昭和59年9月10日第1回が開催され、令和元年(2019)には第36回を数えました。 俳聖芭蕉はじめ多くの文人、墨客の訪れた地、姨捨として知られる「文学と名月の里さらしな・おばすて」の歴史的・文化的価値を再確認するイベントで、関係団体や市民の協力で毎年中秋期に約30日間開催されます。 正式には「信州さらしな・おばすて観月祭」観月祭の諸行事と共に「全国俳句大会」入選句の発表と表彰が行われます。 令和元年の内容については、主催団体23、後援団体21で9/13~10/12 参加観客数9300人(前年2018年実績)(ただし令和元年(2019年)は台風19号の被害などで主要イベント中止)

生活・行事・民俗矢崎山の福次郎/千曲市八幡 郡

郡沖田んぼや峯下田んぼ、建前帰りの大工さん・婚礼帰りの若者が夕闇迫る畦道で、夕日を背に行ったり来たりの千鳥足。正気の人が何かと見れば道端藁のにおい、太い尻尾の赤狐です。パタンと尻尾を右にすれば、田園の畦道をぴょんぴょんと飛び跳ね、左にたたけば、また跳んで、それが何回となく続くやら。着ていた紋付羽織は泥だらけ、頂戴してきたご馳走も何処いったやら、すっかりなくして、「おーいどうだや?」と声をかければきょとんとした顔で「また福次郎狐にやられてしまったか!」と正気づき「俺は少々酔ったのかなー」と慌てて持ち物探し川の中。 かっこを見れば、足袋はだしはいていた下駄か、草履は何処へやら、泣くに泣けない昭和初期の話とか。「福次郎狐の又従弟峰の祠の三次狐」は悪さにかけては天下一品でこの里のみんなが泣かされました。この地の狐達ははみんな同じ一族で他に「おちょぼ三本足の白狐は壇の原の檀十郎」「お米川の女郎狐お米さん」「湯の崎のさねんじ狐」等がおり、時々人間とのかかわりの物語を演じていたということです。 又こんな話もあります。 善光寺へお参りに行き、姨捨駅で降りた、ほろ酔い加減のお父さん、自宅へ帰ろうと八幡田んぼを急いでいでいると若いきれいな女が手招き、誘われるままに、ついふらふらと良い機嫌で与太話。 やがて、「お風呂があるので入りましょう」と優しく誘われてれて、一緒に入る風呂の中。ほろ酔い加減のいい気持で歌の一つも歌っていると、---- 父さんの帰りが遅いと子供や母ちゃん、家族総出で 「おーい父さん!ーー」 探しまくって田んぼ道、道のわきの肥溜めで気持ちよさそうに歌の声、臭いの・汚いの我慢して「あんたどうしたの?」と声かけりゃ、はっと我に返るおとおさん「ありゃりゃ俺はどうしたんだ?」近くの藪で「コンコーン」福次郎狐の声響く。

生活・行事・民俗姨捨孝子伝説と姨岩伝説/千曲市八幡

月の都 姨捨にはたくさんの民話伝説がありますが、ここでは代表的な2話をご紹介いたします。

生活・行事・民俗大池108灯(やっとう)/千曲市八幡

大池地区(大池新田村)は、天正14年(1586)徳川家康の養女・小松姫が上田城主真田信之に嫁いだとき、幕府から化粧料として小松姫に与えられた土地8大池新田52石と小島村48石9)だと伝わっています。 小松姫は、元和6年(1620)、家康の御機嫌伺いに出府した帰路、武蔵国鴻巣(埼玉県鴻巣)で急逝しました。元和8年(1622)、真田信之の松代移封にともなって、大池新田村は大英寺領となり小松姫没後の元和9年頃から行われており、小松姫の菩提寺である大永寺の13世諦誉上人が「人間108の煩悩を鎮める為に108灯の灯を上げて送り火とするがよい」と勧めたことにより始まりました。毎年盆の8月16日夕暮れ時、19時頃から始まります。 大池区育成会を中心に行事が行われており、在住の子供たちが各家をまわって藁を集め集めた藁で108の塔をつくり、最後の一つは大きな塔をつくり大道沿いに約2メートル間隔で塔を並べ、大池側の上部から火を点け最後に大きな塔に点火して108つの灯火で供養します。 この伝統的な行事は、千曲市指定無形民俗文化財として平成27年4月1日に指定されました。

生活・行事・民俗悲恋お仙伝説/麻績村 猿が番場峠

麻績方面から猿ヶ番場峠への細い険しい道を上り、もう少しで峠あたり、弘法清水と呼ばれる冷たい美味しい水の湧き出でる泉が有り、その岸辺に小さな茶屋が有りました。 茶屋は美しい看板娘の名から「お仙の茶屋」と呼ばれ、 お仙の気立ての良さから、峠道を行き来する旅人からはもちろん、村の若い衆にも好かれ「お仙の茶屋」はいつも明るい笑い声に沸いていました。 村の若い衆は一日一回はお仙に会わなきゃ畑仕事も、田仕事も何もできないありさまでした。 もうすぐ寒い信州の冬迎えるという秋のある日、お仙は峠で腹痛に苦しむ旅の武士を見つけ、この武士をお茶屋へと運びこみ、手厚い看護をいたしました。やがてお仙の心を籠めた世話を受ける内、武士とお仙との間には、ほのかな恋心が芽生え、二人は想いを交わす仲となって行きました。武士が京での仕事の為、出発の時別れを惜しむお仙に、武士は約束しました。 「京での務めを無事終えて、来年の今日、必ずここへ戻ってきます 」と---- ところが、仕事を終え,恋しいお仙のもとへ土産のかんざしを胸に急ぐ帰り旅の途中、木曽の街道筋の野党に武士は殺されてしまったのです。お仙はそんな事は、知る由もありません。 恋しい武士との約束の日、お仙は朝から、今か、今かと待ち続けました。お天道様が頭上に来てお昼になっても、日が落ちて夜になっても武士の姿は見えません。 やがて夜も更けて、茶屋の前に立ちつくすお仙の前に、青白い顔をした懐かしい武士が亡霊となって突然現れました。武士は木曽路での惨事をお仙に告げ、京からの土産のかんざしを手渡すと、スーと影のように消えてしまいました。お仙は気ちがいのように、雪の峠道を探し回りましたが、武士の姿はそれっきり現れることは有りませんでした。 次の朝、村人たちは、峠の六地蔵の前で冷たくなったお仙を見つけました。そのお仙の胸には、恋しい武士からのかんざしがしっかりと抱かれていました。 ※この池は本文の、弘法清水ともっと上の今の聖湖当たりの2説があります。 この伝説に因んだ「番場節」があり、中原にその保存会があります。

生活・行事・民俗中原の狐伝説/千曲市八幡・中原

中原の西北に 佐野という集落があります。 ここにはチョボという狐が住んでいました。 この狐は、とても芸が達者で、信州の有名な狐は,みなチョボの手下だったそうです。 つまり、信州狐の大ボスでありました。 近郷近在の名のある狐を上げてみると、今の千曲市の杭瀬下の現千曲市役所・更埴文化会館付近は尾米河原といって、一面の葦藪(よしやぶ)で、米二郎という狐が居ました。 篠ノ井共和の小学校辺りは団の原と言い、ここには「団左ヱ門(だんざえもん)」がおりました。 また近くの郡部落の矢崎山には福次郎がおりました。 この狐たちは時々、佐野のチョボの所に集まり、歌舞伎大芝居を打ったということです。 芝居のある時は、佐野や中原の村中に「今夜大芝居があるから見に集まれ!」とお触れが出ました。 村人たちがひそかに窓の隙間から覗き見していると、下駄をカランコロン引きずるように鳴らしながら、集まってくるのが見えたそうです。 やがて夜になり、指定の場所にみんな集まり、村人達の固唾をのんで見守る中で、彼らの18番「熊谷次郎直実と平の敦盛」の名画面が始まりました。 青い野原が見る見るうちに大海原に変わり、馬にまたがった武将たちの見事な芝居をみせてくれたそうでした。 翌朝、現場に行ってみると、馬に見えたのは藁束で、扇に使ったと思われる朴の木の葉が散乱していたということです。 狐やタヌキ(狐狸)が人を化かす動物という伝説は中国からの伝来の話です。1965年(昭和40年)頃からはこうゆう話は無くなってきています。 日本においてキツネは、神様の使いという扱いを受けていたこともあります。キツネはネズミを食べてくれるため、作物を守ってくれる益獣という扱いも受けてる一方、伝染病を媒介することもありました。良いこともするが悪い面もあるという両面性が、摩訶不思議な存在となり、仏教伝来とともに、人を化かすような存在として扱われるようになっていったのか??

生活・行事・民俗天狗山伝説/千曲市戸倉

天狗は、人には到底及ばない神通力を持ち、悪さもするが人々に苦難があれば、これを 助けてくれる、と云われ、各地に天狗にまつわる伝説が沢山あります。ここ戸倉天狗山の話は、隣村、今の坂城町に住んでいた山伏の兄弟が、千曲川の大水でちりぢりになり、その長男が戸倉自在山に移り住み、毎日厳しい修行を積みながら村人の幸福を願っていました。後に、村人がこの山伏への感謝の気持ちから、天狗として奉ったと云うことです。当時、村人にはなかった、薬草・天候予想等の知識で村人を助け、又祈祷により村人を助けていたものと思われます。 この天狗が棲んでいた証として、公園右手奥の自在山には、「天狗の松」、「天狗の祠」などがあります。 ・千曲市教育委員会「案内板」 ・天狗の松 千曲市天然記念物 樹齢400年 樹高30mの赤松の大木。 ・天狗山のいわれ・自在山神社 大昔、東山一帯は、赤松の大木が生い茂り、昼なお暗く、湧き水もあって、天狗が棲んでいたと云われ、恐れられていました。天狗の棲処としては、絶好の場所であり、天狗山と呼びました。村人はここに、自在山の石祠を造り、天狗を崇め奉った云う云い伝えが残っています。 ・中山古墳 7世紀前半(古墳時代後期) の築造。横穴式石室を有する積石塚円墳です。墳丘14m 通称「中山の塚穴」と称されています。現在、立入禁止。

生活・行事・民俗民話 黒彦神社/千曲市千本柳

昔、ある所に、黒彦の命と白彦の命がおりました。2人はいとこで、年も同じ、住む屋敷も近くでしたので、まるで兄弟のように、2人は仲睦まじく暮らしていました。 年月が過ぎ、黒彦は狩りや漁が得意でした。白彦は書や歌に秀でて、笛などもたしなむようになりました。それぞれの道は違っても、一層、親しみ合う仲になりました。 ところが、2人が17才の春、美しい桜姫に、2人とも心が奪われるようになり、急に、いがみ合ってしまいました。2人は姫を妻にしょうと競い合って、2人で桜姫に求婚に行きました。桜姫は「私には、もはや、いいかわした命がいます」と言って,去ってしまいました。その後ろ姿を見送り、2人はただ顔を見合わせるばかりでした。白彦は、その夜「桜姫が他の命の妻になった。この世に未練はない」と書きおきして、自害してしまいました。黒彦は、白彦の死を見て、本当に、桜姫を愛したのは白彦だと悟り、この上は霊場巡りをして、白彦の霊を慰めようと、旅に出ました。黒彦は国々を回った後、信濃国五加に入り、千本柳を見て、「柳の木は白彦が好きな木だった。私はここで白彦のように書や歌をたしなみ、ここに骨をうずめる。」と、千本柳のそばに庵を建てて、住みつきました。 黒彦神社は、そんな黒彦の徳を慕って、里びと達が祀った社だそうです。

生活・行事・民俗比丘尼石/千曲市羽尾

比丘尼とは尼僧の事、戸隠の比丘尼石は「尼僧が入ってはいけないに領域に入ってしまい石になってしまった話です。ここの比丘尼石はどんな物語が有るのか?分かりませんが古い歴史のあるこの地、羽尾の事とて、尼寺に関係したものでしょうか。 この石の前の道は善光寺への街道、幾多の人々がこの前を通って、手を合わしたことでしょうか? 安永10年(1781年)丹波島の渡しが出来たとき、その舟つなぎ石に所望されました。 この時羽尾村3役人名で「この石は古来からここにあり、動かした事がない。取れば、宣しからざる事。また大頭祭の頭人も、結婚式の節もこの場所は通さないので、この件については御赦免されたい」との嘆願書が出され、今もこの石が有ることから、嘆願は聞き入れられたのでしょう。 比丘尼石については戸隠神社と、その周辺のものが良く知られています。 また千曲市と坂城町の境、磯部踏切の上、山の上には比丘尼石と呼ばれる岩があり、笄の渡し付近から其の姿が見えます。 この地の平安、奈良の都とのつながりは、昔の街道筋(東山道信濃支道の交差点)です。 小県方面から善光寺へと麻績坂井村から古峠越えの街道の交差点で、中央とのつながりも強く、その事を関連ずける様な地名がそこ、ここに残っています。 ・地名 御所、猿楽、在家、吉野、吉野観音等

生活・行事・民俗伝説 恋しの湯(小石の湯)/千曲市上山田温泉

昔千曲川のほとりにお政という綺麗な娘がいました。ある日江戸からの長旅の途中病気で倒れていた若い男米吉を救ってやりました。二人は恋仲となり祝言を上げ村人たちもうらやむ仲睦ましく暮らしておりました。ある日の秋米吉は江戸へ用向きで旅立ちそのまま音沙汰が無くなってしまいました。お政は途方にくれ、信心していた観音様に米吉の無事を一心にお願いしました。ある夜夢枕に観音様がお立ちになり「米吉を救いたければ千曲川の河原で赤い石を100個拾い奉納しなさい。」と告げられました。それからというものお政はただ一心に赤い小石を拾いどうにか99個の小石を見つけました。100個目のあと1個の小石がどうしても見つけられず悲しんでおりました。やがて冬が来、凍えそうな日一筋の湯気が立ち上がってこんこんと湯が湧き出ている場所から100個目の赤い小石を探し当てました。早速観音様に奉納すると間もなく愛おしい米吉が帰ったという事です。この話を聞いた村人たちは、この湯を「恋しの湯」(小石の湯)と名付けたというお話しです。 千曲市ふれあい福祉センターと大正橋に赤い石があります。探してみてはどうでしょうか。

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