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ちくま大百科

【神社・仏閣】満照寺

所在:千曲市 埴生(小島)

室町時代大永2年(1522)上野国碓氷群秋間の第三世夫山と屋代越中守政国とで、総田を開山、政国を開基とし、日本曹洞宗の禅寺を一重山山麓の埴科郡小島村(現千曲市小島)の地に開きました。
有明山を背に姨捨山に対していたことから「明月山」とし政国が祖父満照にちなんで「満照寺」とつけました。近世になり宝永元年(1704)江戸幕府の御天領としておちつき、六世保厳総天が満照寺の基盤を固め中興といわれました。

逸話として「満照寺の赤椀」満照寺は御天領であったことから時の加賀の前田公が参勤交代のおり、当山へ立ち寄ることしばしばあり、夏のあついさなか歩かれ一休みの時、和尚は何を血迷ったか殿様に「夏の炬燵」を差し上げました。殿も御天領の和尚の言うことを聞かねばなるまいと半信半疑で炬燵に足を入れたところ、なんと涼しく長旅の足の疲れも吹き飛んだ。布団をまくると真っ赤な炎が見える、よく見るとそれは朱塗りのお椀が伏せたものでした。頓智のきいたこの計らい偉く御満悦にて江戸に向かわれました。その計らいは江戸に広がり、信州信濃の満照寺「ぬるい炬燵は満照寺」として世間に紹介されました。加賀の殿様がお話しされた満照寺の赤いお椀の炬燵は、いつしか冬の炬燵に変わってしまったようです。そして暖かくない炬燵を「満照寺の炬燵」と言うようになったのだと伝えられています。

「佐久間象山の大砲」という話も伝えられています。偉人、佐久間象山は寛永4年(1851年)生萱村から大砲の試射を行った、なんと玉が飛びすぎて、田を超え、山を越え、天領の満照寺山麓に着弾しました。時の和尚と名主は、一大事とばかり坂城(ねずみ)の代官所へ持ち込みました。偉人 佐久間象山もこの時ばかりは驚いたとか。山寺常山が中之条代官に謝って砲弾を返してもらったと伝えられています。
又「満照寺のこたつ」については、別の民話では、埴生の満照寺にはけちん坊な和尚がいた。人が来てもお茶一杯だけでお菓子は出すなよ、とケチを繰り返していたとか、村人は満照寺じゃ炬燵に火も入れないそうだと噂が広がり、若者がおもしろがって満照寺へ行った。奥の間に案内され、今朝は相当の寒さじゃ、炬燵にあたりなさいと和尚は炬燵を進めた。若者が炬燵に足を入れたとたん、冷めてー! と飛び上がった炬燵は冷えきっており、よく見ると赤いお椀が埋めてあっておきらしく見せかけてあった。若者はただあきれ返って寺をひきあげたとか。それからぬるい炬燵のことを満照寺の炬燵といわれるようになったとか。

満照寺山門

満照寺山門

本堂

本堂

【参考事項】

・満照寺の紹介より
・更級埴科の民話

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