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ちくま大百科

【自然】千曲川

所在:千曲市全域

千曲川は、市内のほとんどの小中学校の校歌に歌われています。幼い頃から口ずさみ、親しんできた校歌に「千曲川」が歌詞として詠み込まれています。地元で歌い継がれた千曲川。そして、平成15年1市2町が合併して、新しい市の名前に採用されました。千曲市のシンボルです。

千曲川は、古く萬葉集に歌われて以来、近代抒情詩や歌謡曲にも登場する清き美しい川。更に、千曲川は、幾多の洪水の度に、流域に数々の被害を与えました。しかし、一方で、豊かな自然を育み地域に潤いと沢山の恵みをもたらしました。

千曲川の源流は、山梨県、埼玉県と長野県の県境が接する秩父山地の甲武信岳に発し、南佐久郡川上村の河谷を下り、佐久平、小諸市と流れ、上田盆地を経て、善光寺平に入り、千曲市のどん真ん中を悠々と流れています。千曲市粟佐橋辺りでほぼ直角に流れを北東に変え、流れも緩やかになり(床川勾配900分の1~1000分の1)大きく蛇行しています。そして、長野市の落合橋で梓川や高瀬川などを支流に持つ犀川と合流し、新潟県に入って信濃川と名を変え越後平野を横断して日本海に注ぐ、日本一の大河(367㎞)です。

千曲川214㎞、信濃川153㎞、千曲市の流域14㎞(土口~磯部)

千曲市の千曲川に架かる橋江戸時代、幕府の政策は河川に橋を架けないことを原則としていたため、架橋技術も思うように発達しませんでした。
交通上の悩みに応えるのが船でした。船がやがて定期的な「渡し船」となって「渡し場」ができました。そして「船橋」となり、「木橋」から今の永久橋が作られました。千曲市の橋も同じような架け替えを経て、現在のすばらしい橋ができました。 

●篠ノ井橋(長さ 457m)
現橋梁の600m上流に北国街道の矢代の渡しがありました。昭和2年(1927)国道の橋とし旧国18号線を結んだ幅員12.5mのトラス式の橋が完成。その後、国道18号バイパスが開通して、平成6年(1994)新篠ノ井橋が完成しました。

●粟佐橋(長さ 428m)
大正9年(1920)木橋ができました。昭和24年(1949)頃には、流水防止のため岸とワイヤーロープで繋いだり、また、板橋を歩くと木琴のように出るので「木琴橋」とも云われました。現在の永久橋は平成2年(1990)に完成しました。

●千曲橋(長さ 402m)
昔「杭瀬下の渡し」があった。昭和8年(1933)鉄骨トラス式の永久橋が竣工。昭和60年(1985)に県営水道の水道橋を併設。平成8年(1996)2基のタワーで橋を支える斜張橋の新千曲橋が完成しました。タワーが青空に映えてすばらしい橋です。

●平和橋(長さ 580m)
昔「中村の渡し」がありました。昭和26年(1951)「対日平和条約」の調印署名に因んで、「平和橋」と名付けられました。昭和60年(1985)今の橋が完成しました。

●冠着橋(長さ 475m)
現冠着橋の下流にかって、「千本柳の渡し」がありました。昭和33年(1958)に河道部分に木製の吊り橋が完成。昭和44年(1969)更級側に幅員3mの鉄骨トラス式の永久橋が完成。平成7年(1995)に 千本柳側に幅員4m・6m・9mのコンクリート橋ができて、鉄骨トラス橋と繋がりましたが、橋幅が変速的となって交互交通の橋でした。平成26年(2014)、現在の橋が完成しました。

●大正橋(長さ 345m)
昔「若宮の渡し」がありました。大正3年(1914)現在の大正橋の前身である有料の木橋が完成。昭和6年(1931)鉄筋コンクリートの永久橋が竣工。昭和43年(1968)鮮やかな朱色の歩道橋が完成。平成14年(2002)現在の大正橋が完成しました。「大正ロマン」を感じさせる美しい橋です。

●万葉橋(長さ 364m)
昭和41年(1966)戸倉上山田温泉、南の玄関口の橋として新設されました。橋詰にある万葉歌碑に因んで、万葉橋と名付けました。この橋から見る戸隠連峰・飯縄の山々の景色はすばらしい。

●笄橋(長さ 230m)
坂城町刈屋原と千曲市力石を結ぶ本川部分に架かる橋。かつては、橋脚が低いコンクリート橋でした。増水時には浸水するため「もぐり橋」と云われました。
昭和59年(1984)現在の橋が完成しました。力石側は河川敷の通行のため、千曲川水位上昇(1.9m)の場合、通行止めとなります。坂城の葛尾城主村上義清の奥方の落城悲話「笄の渡し」の伝説が残っています。

令和1年の大洪水で流出してしまいましたが、千曲川の河川敷を利用したスポーツ施設、河川公園が各地にありました。●千曲川サイクリングロード
千曲川左岸の堤防を利用した自転車専用道路。上田・千曲・長野自転車道とも呼ばれ、延長23.3㎞のロングコース。毎年、千曲橋を発着の「千曲川一輪車チャレンジレース」が開催されます。

●雨宮橋緑地
マレットゴルフ場(27ホール)

●千曲橋緑地運動場
マレットゴルフ場(36ホール)・野球場

●平和橋緑地運動場
マレットゴルフ場(18ホール)・野球場

●千本柳運動場

●野球場(冠着橋下)

●大西緑地公園
マレットゴルフ場(45ホール)・野球場・サッカー場・陸上トラック・子供広場

●戸倉千曲川緑地公園
マレットゴルフ場(18ホール)・湯の里親水パーク

●萬葉の里
マレットゴルフ場(36ホール)・野球場・サッカー場・スポーツエリア
陸上トラック 近くにラベンダー園があります。

●水辺の楽校
千曲川左岸平和橋からの河川公園。入口は平和橋・更級須坂県道沿い。

●千曲川萬葉公園
万葉歌他、多くの文学碑や、山口洋子作詞「千曲川」の碑もあります。

【催しもの】
●千曲川ハーフマラソン大会
毎年11月開催。発着 白鳥園。
千曲川両岸を走ります。

●千曲ラン
発着 白鳥園。千曲川サイクリングロードを自由に走ります。

●千曲川フィッシング
6月のあゆ漁解禁の頃から釣りが楽しめます。

●釣ーリズム
禁漁となる冬場、ニジマス釣りが楽しめます。

●千曲川納涼煙火大会
毎年8月7日に開催。戸倉上山田温泉の千曲川河畔

●元旦マラソン
毎年元旦の早朝。 千曲橋と大正橋より走るイベント。

ところで、千曲川を見渡すと延々と続く堤防の姿が目に入ります。この堤防工事は、大正7年(1918)に第一期千曲川改修事業として、築堤工事が始まりました。3年後には内務省直轄事業となり、23年の歳月の後、昭和16年(1941)「内務省堤防」として当初計画の一部を残して上田~立ヶ花間の堤防が完成しました。

ここに千曲川の安全性の基礎が固まったのです。
特に、この事業では戸倉上山田温泉左岸工事が優先的に行われ、大正11年(1922)に「温泉大堤防」が完成。温泉は洪水被害から解放され大きく発展していきました。

波閇科神社に「千曲川改修記念献灯碑」が建立されています。

歴史上に残る大洪害●仁和の大洪水
仁和3年(887)八ヶ岳の山に山崩れがあって千曲川はせき止められダム湖ができました。
1年後、(仁和4年(888))一気に決壊して大洪水が発生。流域各地に大きな被害が出たと伝えられています。千曲市では、右岸の更埴条理遺跡は大量の砂や石が積み重なって埋まり、深い所では2mもある砂層ができました。その地層の断面標本が森将軍塚古墳館ロビーの壁に展示してあります。災害の歴史を学ぶ教材です。

●戌の満水
江戸時代中頃 寛保2年(1742) 「戌の満水」と呼ばれる大洪水が発生。2,800人以上と云われる犠牲者を出し、田畑の流出も広範囲に渡る未曾有の大水害でした。

水死者の霊を弔って各地に多くの供養塔が建てられました。千曲市寂蒔の永昌寺には「水死萬霊等」に153名の戒名が書かれた位牌があります。また、岩野地積には「川流溺死万霊」の供養塔が建っています。

令和元年東日本台風
令和元年10月、台風19号の影響で激しい大雨が襲いました。千曲川流域では「堤防決壊」「電車鉄路の鉄橋崩壊」、「越水・氾濫」などにより、各地に甚大な被害が出ました。千曲市でも千曲川の杭瀬下で危険氾濫水位5mを超える6.4mを観測。霞堤から水があふれ、中、新田、杭瀬下一帯に浸水被害が発生しました。また、他の地域でも越水被害に見舞われた所が多くありました。千曲川は令和の大洪水で大きな爪痕が残っています。一変した荒涼たる千曲川の光景に心が痛みます。

姨捨から千曲川

姨捨から千曲川

篠ノ井橋

篠ノ井橋

粟佐橋

粟佐橋

千曲橋

千曲橋

平和橋

平和橋

冠着橋と冠着山

冠着橋と冠着山

新旧冠着橋

新旧冠着橋

大正橋

大正橋

万葉橋

万葉橋

笄橋

笄橋

永昌寺の戌の満水 水死萬霊塔

永昌寺の戌の満水 水死萬霊塔

【参考事項】

・千曲川の今昔
・千曲川大紀行
・信州の風土と歴史「川」

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