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ちくま大百科

【文化財・遺産・史跡】土口の石垣

所在:千曲市土口

 土口村は、北は頂に倉科将軍塚がある北山を境にして岩野村(長野市松代町)と、東は堂平を境に清野村(長野市松代町)、南は東山を区切って生萱村と三方を山に囲まれ、西は耕地が開けて沢山川(生仁川)をはさんで雨宮村に接しています。沢山川が千曲川に合流する地点に位置し、北国脇往還沿いの集村であります。矢代用水堰の流末にもあたり、豪雨や長雨続きで千曲川が洪水になるたびに大被害を受けた村です。
 土口は千曲市の中で標高の低い地域です(標高353m)。集落は自然堤防上にありますが、千曲川や生仁川の氾濫で、たびたび水害を蒙ってきました。土口ではその対策として明治から大正五年頃にかけて、居宅・物置・土蔵などの地盤上げが行われました。(「雨宮県村村史」)
 しかし、土口の北辺の笹崎の川幅は200mほどと狭く、河床勾配が緩やかなため、耕地の浸水は免れませんでした。
 千曲川改修工事の際に、生萱に採石工場が設置され、馬車が土口を通って千曲川の工事現場へ石を運びました。雨宮・横田間は堤間を狭めたため大量の土砂を掘削しました。この土砂は新堤防に使われました。土口の西側、雨宮の北側にある広い畑地は、いわゆる起返しの地籍です。厚い砂壌土に覆われていますが、新堤防が築堤されるまでは堤防がありませんでした。そのため洪水による畑地の水害は度々発生していました。
 新堤防は、この畑地の大部分を堤内に残して構築されました。また千曲川が増水した時に逆流する生仁川には水門が作られました。生仁川水門は高さ2.3m、幅3.3m、長さ18m余の鉄筋コンクリート三連のもので更級・埴科地方では最も大きなものでした。大正12年(1923)に着工し、昭和2年(1927)に竣工しました。

【参考事項】

・資料 信濃の巨流千曲川(発行財団法人河川情報センター100ページより引用)

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