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ちくま大百科

【文化財・遺産・史跡】北国街道、矢代宿・戸倉宿

所在:千曲市屋代、戸倉

江戸時代の始め、最初の五街道が制定された後、「脇往還」として北国街道が制定されました(1603頃)が、その後の見直しで慶長16年(1611)、屋代が宿場に制定されました。北国街道「矢代宿」成立の始まりです。(「矢代」は、江戸時代の始め、検地の際に検地帳に誤って記載されたのが原因で、明治5年正式に「屋代」に戻るまで使用されました)
矢代宿は北国街道(追分~高田)と北国松代道(矢代~善光寺)の分岐点として重要な役割を持つようになっていきます。本陣、脇本陣、問屋2件で構成され、参勤交代の大名行列や善光寺参りの人々、佐渡の金銀を運ぶ人々で大変賑わったであろうと想像されます。
明治3年(1870)、宿場制の廃止に伴い、本陣、脇本陣は廃止されましたが、当時の面影を残す桝形構造の道路は現在も主要道路となっています。
明治21年(1888)信越本線開通と共に急速にさびれていきました。 
一方 戸倉宿はほぼ同じ頃設けられたましたが、千曲川の氾濫水害を避けるため、上戸倉宿が設けられ、上・下戸倉宿が一体となって宿場機能を果たしました(合宿)。その後 旅籠屋は下戸倉宿に発達し、寛保2年(1742)〜宝暦7年(1757)頃旅籠屋への飯盛り女の抱え入れが許可されました。安政3年(1856)総軒数194軒うち旅籠屋38件茶屋18軒となり繁栄した様子が伺えます。天保10年(1839)の銘のある、下戸倉宿の飯盛女52名の名を刻む石造夜灯が水上布奈山神社境内に献灯されています。

左手奧の須須岐水神社と共に北国街道桝形の名ごりが残る現在の県道

左手奧の須須岐水神社と共に北国街道桝形の名ごりが残る現在の県道

北国街道矢代宿制定400年を記念して須須岐水神社の前に建てられた石碑

北国街道矢代宿制定400年を記念して須須岐水神社の前に建てられた石碑

水上布奈山神社の境内の灯篭

水上布奈山神社の境内の灯篭

台石に刻まれた飯盛り女の連盟

台石に刻まれた飯盛り女の連盟

【参考事項】

・屋代の歴史物語、大橋幸文書(屋代まちづくりを考える会発行)
・更埴市史 第2巻 近世編
・戸倉町史

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