所在:千曲市大字若宮
延喜式内社です。本殿は、三間社流れづくり、3本の堅魚木と千木を置き、周りをベンガラと黒色に塗られたりっぱな大きな建物です。創建については、いろいろな伝説がありますが、神社の由緒には、允恭天皇の皇子である黒彦王が勧請して、祖父にあたる大鷦鵪命(おおさぎきのみこと=仁徳天皇)を冠着山支峰八王子山に祀ったのが始まりと伝えられています。
その後、仁和3年(887年)(翌年これにより千曲川の大洪水が記録されている。「仁和の大洪水」)の大地震で崩落した複数の神社と共に麓の若宮八幡宮に合祀されました。氏子は、旧若宮村(若桜宮村)、旧黒彦村、旧芝(柴)原村の3村で構成されていました。このうち旧黒彦村については、度々起こった千曲川の大洪水で分散移住。この時、更級郡側は、若宮村に、埴科郡側は、千本柳村に移り住みました。
宝暦6年(1756年)年まで「若宮八幡宮」とされた真言系の神宮寺から現在の社名になったと云われています。
文化年間(1804年~1817年)に箭塚遺跡(せんずかいせき)から発掘された細形銅剣(昭和40年県宝に指定)が社宝となっています。
現在の鳥居は東側に向けて建っていますが、かって、そこは千曲川の流れを背にした裏側でした。古くからの戸倉宿と明治になって開湯した上山田温泉を結ぶ大正橋の架橋で表側になってしまいました。本来の参道は西方の山側の道から入ります。古来、この道は、八王子山・万治峠 越えの道で、多くの通行がありました。
参道に面して、趣のある鳥居があります。扁額は松代藩6代藩主真田幸弘公の直筆です。隣りの覆屋のある社頭碑は、正面が正親町三条実愛卿(さねなるきょう)の書です。側面撰文ならび書は佐久間象山によるものです。実愛卿の姑の柳原夫人より「さらしなの歌」を賜り、これを刻み、栄として建立しました。宮司豊城直友は、京都において実愛卿との知遇がありました。この和歌が、「若宮・羽尾・須坂」の3村合併の時、「更科」の命名の参考になりました。
直友は佐久間象山と親交があり、象山は度々この地を訪れている。文字は、謹厳な隷書体で、社蔵の大幟も象山の名筆であります。
神社では、毎年6・12月のみそかに、「大祓」の神事を行います。12月の大祓には紙製の人の形(ひとかた)をした形代(かたしろ)を清浄な千曲川に流して、厄落としやけがれ祓いして、清めます。
〔宝篋印塔(ほうぎょういんとう)〕(逆襲塚)〔昭和63年市有形文化財に指定〕
佐良志奈神社境内にある宝篋印塔。南北朝時代南朝の宗良親王に従い戦に出掛ける人が建てた墓。
境内には永和2(1376)年銘の古い石塔が残されています。後醍醐天皇の皇子宗良親王(信濃宮といわれ南信濃を拠点に上野、武蔵、甲斐、駿河の各地を北朝の足利幕府軍を相手に転戦し、戦傷治療の為この辺りに一時期隠れ住んだとの伝説があります。)に決死の従軍を誓った在地の武士45名が戦地に赴く前に自分達の墓とした「逆襲塚」。境内には中世の城館を思わせる土塁が北と西に残り、この頃の南朝方武士団の名残かもしれません。
〔カタクリ群生地〕
八王子山、佐良志奈神社周辺は、カタクリの群生地としても知られ、春には地域の有志の方による祭りも催されています。