所在:千曲市八幡・中原
八幡・稲荷山地区に関係し、郡区の古老たちの記憶に残る女性「川島芳子」。
川島芳子は、明治39(1906)年6月3日に中国で生まれました。松本藩士の家に生まれた川島浪速(なにわ)の養女になったから川島姓、芳子の名も浪速がつけました。
清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女、本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)小学校から高校まで東京や松本で育ち、旧制松本高等女学校(現蟻ケ崎高校)で学び、中国に戻り、上海事変の謀略や満州国建国の工作にかかわり、第一次世界大戦期の「女スパイ」として「東洋のマタハリ」「男装の麗人」と世慣れていました。
昭和20年日本敗戦に伴い、北京で国民軍に捕らわれ昭和23年銃殺刑に処せられたとされたが省長春で、生きていたとの言も有りました。
聖高原の池から西に少し上ったところに、川島浪速の別荘「無聖庵」があり、芳子の逸話説明板があります。また中原にも、住んでいたことが有り、特に郡の大雲寺には長くいたのでしょうか?
「子供たちが大雲寺の石垣の下に集まると、戸を開けてお菓子などを投げてくれた」と古老たちの話が伝わっています。彼女が乗る馬を地元の青木なにがしという人が世話をしていたなどの話も残っています。その後中国に渡ったのでしょうか?
平成20(2008)年11月、芳子が処刑後30年間も生きていたというニュースが全国に流れました。
芳子の処刑については、短い髪だったのに遺体は髪が長く首まで巻きついていたことや、刑執行まで異例の短期間だったことなどから、当時から疑念がもたれていました。
さて、その真実はいかに。