}

ちくま大百科

【人物】大谷 幸蔵

所在:千曲市羽尾

羽尾字仙石地区元更級中学校後の角地、石垣の左の一角に石碑が有ります。「蚕界偉人 大谷幸蔵君之碑」と刻まれています。碑は昭和26年建立で書は戦後日本の復興の基盤をつくった総理大臣、吉田茂氏です。大谷幸蔵さん(1825〜87)は江戸幕末、日本が鎖国から開国に舵を大きく切ったとき日本の貿易業の先駆者だった人です。
当時、海外に通用する日本の商品は生糸でしたから、養蚕王国だった信州から打って出ることができました。この碑の右隣、現在の寿高原食品の資材置き場が幸蔵氏の屋敷跡です。
現在は直系のご子孫は当地におらず、横浜市の能満寺に幸蔵氏一族のお墓があるそうです。
幸蔵氏は時代の先駆けとなる仕事をして顕彰碑を建ててもらうような功績を残した一方で、地元、松代藩の農民らに屋敷を焼き討ちにされた過去があります。幸蔵氏は幕末、松代藩から商才を見込まれ、商品価値の高かった絹織物や生糸などを大量に手に入れ、それを売って松代藩の財政資金に当てていました。しかし、明治維新後、政府軍側として出兵し、旧幕府軍との間の戊辰戦争で松代藩は財政を極度に悪化させ、農民への支払が滞り、農民は生活資金に窮乏しました。そのため明治3年(1870)、農民が大挙して松代藩に押し掛けた一揆「午札騒動」が起きました。
そのとき、幸蔵さんは生糸を吐く蚕の卵を台紙に張り付けた日本の蚕種を海外で販売するためイタリアにいたのですが、留守を預かっていた幸蔵さんの妻らが焼き討ちを逃れて、長男の三作さんがいた横浜の店に逃げのびたと「蚕界偉人・大谷幸蔵」に記されています。

【参考事項】

・資料 「蚕界異人・大谷幸蔵」(尾崎章一著 大正3年に出版)

印刷する
人物の一覧へ