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ちくま大百科

人物瀬在 幸安/千曲市内川出身

埴科郡五加村(現千曲市内川)に昭和5年(1930)4月7日、瀬在医院医師忠幸の三男として生まれました。 屋代東高校(現屋代高校)を卒業。昭和30年(1955)年日本大学医学部医学科を卒業。昭和35年(1960)同大学院医学研究科博士課程(外科医)を終了。医学博士。 昭和40年(1965)から3年間、米国オレゴン大学心臓外科に留学。昭和45年(1970)、日本で初めて心筋梗塞の冠動脈バイパス手術に成功。心臓外科医の国際的な権威者として活躍しています。 平成8年(1996)日本大学第10代総長。その後、総長を3期務め、名誉教授となりました。 兄は(瀬在良男)哲学者で第9代日大総長となり、兄弟で日大総長を務めました。 平成27年(2015)10月、千曲市初となる名誉市民称号を贈られました。 ・著書:「冠動脈外科の進歩」、「今こそ前へ」「からだの病気」他

人物山崎 洞湖/千曲市力石

【絵師】 安永4(1775)年~天保5(1834)年 享年60歳。 江戸時代の画家、更級郡力石村に画工栄春(典備)の子に生まれました。父の影響もあって絵を好み、成長した後、江戸に出て蓁先生に画を学び、その後、狩野洞春に学び、心境著しく他の子弟を抜き師名の一字を頂き「洞湖」と号しました。その後法橋となり宮殿所々の絵を描いた。文政12(1829)年松代藩江戸邸の火災にあいその復興にあたり絵を描くことを命じられました。その後力石村の家にあって、求めに応じて多数の絵を残しました。 智識寺、見性寺、耕雲寺(坂城町)、泉徳寺(坂城町)などに多く残っています。 ※法橋 法印、法眼に次ぐ僧位を表す称号。絵師、仏師、儒者、医師などに授けた称号。

人物小平 甚右衛門/千曲市上山田八坂

小平甚右衛門 天保14年(1843)~明治4年(1871) 享年29才 幼名を頼三郎といい、21才で羽場の宮原家から原の前の小平家の長女ヤヲと結婚。 小平家に入籍と同時に名も甚右衛門と改名しました。 少年時代から学問好きで働き者でした。農業に精を出し、暇になると馬を引いて川中島と上田の間 荷物を運ぶ手間稼ぎを生業としていたのです。明治2年松本藩、上田藩に相次いで農民一揆が起こりました。甚右衛門は手間稼ぎの合間に上田藩の一揆を目で見。肌で感じていました。 明治3年11月25日松代藩領民あげての一揆松代騒動(午札騒動)が起きました。 六ケ郷の民衆は丸山(上山田)周辺に集まり松代へ向かって出発した。途中村々の民衆も集まりおよそ2万人に達しました。 一揆は民衆の全面勝訴に終わったかに見えたが、12月に松代藩軍隊による騒動の容疑者として600人ほど(内上山田村22人)が召捕られ400人が入牢となった。明治4年3月26日斬罪1人、入牢10年13人、杖70が4人、笞30が6人、お叱300人以上と断罪されました。 小平甚右衛門は「一揆の頭取は私です。」と取調べに対し騒動の責任者は私一人だと言い張り続けた。その潔さは、藩の武士でも頭を下げたと言い伝えられています。 明治4年5月26日松代城北の鳥打峠の刑場で打ち首となって果てました。処刑に先立ち「子供の教育は大切なり。」と遺言を残したといわれています。重い近代の扉を民衆の手で開き、民衆のために死んだ郷土の義人、甚右衛門の死をかけた願の言葉であります。 この時、妻(や越)は首級をもらい受け帰りました。罪人が遺言を許され、首級をもらい受けるなど異例のことでした。 その後、甚右ヱ門の義侠の真骨頂は誰でも認めることでした。年を経ること久しく、昭和13年、「頒徳碑」及び「遺言碑」が上山田村羽場山伏塚の東麓に建立されました。 また、甚右衛門は妻や越と共に上山田漆原にある一族の墓に安置されています。

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