松代騒動(午札騒動)/千曲市上山田松代騒動は、明治3年松代藩全域や北信4郡に起こった農民一揆です。その発端は、上山田村にありました。明治維新の大変革のなか、松代藩では出費が嵩み財政は困窮をきわめていました。その対策として藩札を発行したり、御用商人の更科村仙石の大谷幸蔵に献策を依頼。
その商法社から商法手形も発行させたが通貨や物価が混乱しました。(この手形はデザインが麒麟であるが、午に似ているので午札と呼ばれ、松代騒動を午札騒動とも言います。)
明治3年11月 農民は、凶作が続き藩に減租嘆願が必至の状態のところ、お触れが上山田村に届きました。「石納代は金十両に籾四俵半相場(元は籾七俵)、藩札は額面二割五分引き通用」と厳しいもので、村中大騒ぎとなりました。いろいろ議論した結果、まず、藩に救済策の嘆願を決めました。11月25日藩に行った名主らの帰りが遅いことから疑心暗鬼になり、普段から積もっていた不信・不満が爆発して、その先導になったのが一農民の小平甚右ヱ門でありました。
「もう我慢は限界」と直訴の人々を集めました。上山田村や近くの村々の農民が決起し、その数3,000人といわれました。千曲川左岸と右岸の二手に分かれて松代を目指す。千曲川左岸を行く強訴隊は、更科村仙石の大谷幸蔵宅を焼き払い、八幡、桑原と行く先々の農民が決起しました。千曲川両岸の二手は岩野村で合流。20,000人ともいわれ、26日朝農民が大挙して松代城下になだれ込みました。城下は大騒乱になりました。藩知事真田幸民が乗り出して大英寺で会談。
嘆願書を提出。受理されました。