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ちくま大百科

事件・出来事大逆事件/千曲市屋代

明治の終わり、政府による社会主義者弾圧の事件です。 屋代町の新村忠雄は、若くして社会主義に目覚め、幸徳秋水に学んでいましたが、同じく弟子の宮下太吉が長野県(明科)で爆裂弾を作ったことから、明治天皇暗殺を企てたという疑いで、明治43年(1910)、幸徳秋水始め、新村忠雄や、忠雄の兄で屋代町の収入役をも勤めた新村善兵衛(善雄)も捕らえられました。 これは、政府が自由・平等を求める社会主義運動を壊滅するために、単なる「爆発物取締罰則違反」容疑を「大逆事件」にすり替えた弾圧事件と言われています。 裁判では、幸徳秋水、新村忠雄を含む12名が死刑、12名が無期懲役、兄・善兵衛も懲役8年の実刑となりました。出獄後の善兵衛は屋代に戻ったものの、地元の人々の白い目と警察の尾行に耐え兼ね、仮名を使って大阪で暮らし客死しました。当時、屋代の人々は事件の本質を見抜くことがでず、新村家は逆賊の家として苦しみを背負ってきました。ただ、時の生蓮寺住職の計らいで「賢誉至徳善雄居士」「禮誉救民忠雄居士」という立派な戒名のお墓が残されたのは救いでした。 社会主義に殉じ(兄善兵衛は、全くの冤罪者ですが)、時代の先駆者であった新村兄弟の名誉が回復されることを願って止みません。

事件・出来事警廃事件(警察署廃止事件)/千曲市屋代

明治から大正にかけては「郡」の単位で政治が行われ(郡制)、郡には役所と警察署が置かれました。埴科郡に於いては、屋代に郡の役所と屋代警察署が置かれましたが、大正15年(1926)、時の長野県知事は何の前触れもなく一方的に、屋代・岩村田・中野の警察署を廃止することを決めました。警察署の廃止は同時に郡の役所の廃止にも繋がり、郡都として発展した屋代町にとっては大変な打撃で大問題でした。町では町民・郡民大会を開き、町長・助役・町会議員が総辞職して抗議し、また3町挙げての警察署廃止の反対運動は長野市城山での大々的な県民大会にまで発展し、当日は長野駅前から2500人余の大行進となりました。群衆の中には県庁や知事官舎を襲い、知事・警察部長等に抗議や乱暴を働いた者もいて、「騒擾(そうじょう)罪」として処罰を受けましたが、同時に県知事は免職となりました。「警廃事件」として大きく報道された事件ですが、代わりの新任知事は昭和2年(1927)、3つの警察薯の復活を発表しました。警察署復活に力を注いだ先人の熱い情熱と志に敬意を払いたい思いです。

事件・出来事松代騒動(午札騒動)/千曲市上山田

松代騒動は、明治3年松代藩全域や北信4郡に起こった農民一揆です。その発端は、上山田村にありました。明治維新の大変革のなか、松代藩では出費が嵩み財政は困窮をきわめていました。その対策として藩札を発行したり、御用商人の更科村仙石の大谷幸蔵に献策を依頼。 その商法社から商法手形も発行させたが通貨や物価が混乱しました。(この手形はデザインが麒麟であるが、午に似ているので午札と呼ばれ、松代騒動を午札騒動とも言います。) 明治3年11月 農民は、凶作が続き藩に減租嘆願が必至の状態のところ、お触れが上山田村に届きました。「石納代は金十両に籾四俵半相場(元は籾七俵)、藩札は額面二割五分引き通用」と厳しいもので、村中大騒ぎとなりました。いろいろ議論した結果、まず、藩に救済策の嘆願を決めました。11月25日藩に行った名主らの帰りが遅いことから疑心暗鬼になり、普段から積もっていた不信・不満が爆発して、その先導になったのが一農民の小平甚右ヱ門でありました。 「もう我慢は限界」と直訴の人々を集めました。上山田村や近くの村々の農民が決起し、その数3,000人といわれました。千曲川左岸と右岸の二手に分かれて松代を目指す。千曲川左岸を行く強訴隊は、更科村仙石の大谷幸蔵宅を焼き払い、八幡、桑原と行く先々の農民が決起しました。千曲川両岸の二手は岩野村で合流。20,000人ともいわれ、26日朝農民が大挙して松代城下になだれ込みました。城下は大騒乱になりました。藩知事真田幸民が乗り出して大英寺で会談。 嘆願書を提出。受理されました。

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