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ちくま大百科

文化財・遺産・史跡稲荷山銀行(梅沢屋)/千曲市稲荷山(上八日町)

善光寺地震から復興した稲荷山は再び活気を取り戻し、生糸や絹織物を中心に、綿・麻・薬・農具などの生活雑貨を扱う店が軒を並べ、北信濃随一の商人町となっていきました。 商都の富の貯えと融資の必要性から、明治14年(1881)稲荷山銀行が資本金12万円で設立されました。 頭取には中原の和田郡平、専務取締役に小出八郎右衛門がなり、小出宅を間借りして寺子屋式の畳敷き銀行が始動しました。重役陣の人望と顧客の秘密が厳守された業務により、信頼される銀行として成長していきました。 明治26年、経営危機に陥った松代の第六十三国立銀行を救済するために合併をして稲荷山六十三銀行となり、明治30年には普通銀行に転換して六十三銀行と名称を変えました。 小出八郎右衛門死去後の大正11年(1922)本店を長野市に移し、昭和6年(1931)には上田の十九銀行と合併して、現在の八十二銀行となっています。 明治期に建てられた稲荷山六十三銀行本店の建物は、その後雑貨を扱う梅沢屋が買い取り、現在も家人が住んでいます。 令和6年4月(2024)八十二銀行の稲荷山支店は屋代支店に併合され閉店となりました。

文化財・遺産・史跡荏沢川石積み堰堤/千曲市桑原(佐野)

一級河川佐野川支流の荏沢川は、昔から地理的な要因で水害や土砂崩れが頻発していました。明治15年(1882)から17年にかけて当時の内務省が改修工事を実施し、中流域に大きな野面石と割石を用いて空積みの堰堤が5基設置されました。 このうち最下流の1基を除き4基が現存しています。 コンクリートを使わず石を積んで堤防を造った、明治期の土木技術を見ることができる貴重な産業遺跡となっています。 平成21年、国の登録有形文化財に指定されました。 木々の緑に囲まれて流れる透明な水や水しぶきが、気持ちよい清涼感を与えてくれます。

文化財・遺産・史跡桑原地区の城跡(小坂城・佐野山城・竜王城)/千曲市桑原(小坂・佐野)

いずれも戦国時代に山城として築城されたものですが、狭い範囲にいくつも造られたということは、中信と北信を結ぶ峠越えの要衝であったと云えるでしょう。 小坂城は、小笠原貞宗⇒武田信玄⇒上杉景勝の順に統治されました。周囲にはいく条もの廓があり、当時の石垣も存在しています。多数の掘割によって仕切られた広大な山城です。水源は西方の蟹澤より取水しています。 佐野山城は、古谷沢、不動滝、ジリダレ沢の三川に挟まれた自然要害の地にあります。 堀割によって仕切られ、剣の刃渡りを上った高地にも廓の跡が見られます。水利は古谷沢より運ばれました。また、山中より麻績と容易に連絡する事ができました。 城主は桑原氏ですが、武田信玄の所領時代には、武田家臣、内田監物が在籍したとされています。 竜王城の城主であった清野左衛門尉信昌が、上杉景勝に従い越後の芝田(新発田)に出兵中に深志城主小笠原貞慶の襲撃を受けたが、留守居役であった父親の清寿軒の機転により、少数で小笠原の先鋒をみごと打ち破り撤退させたという話が残っています。

文化財・遺産・史跡七人塚/千曲市桑原(大田原)

大田原の草分けといわれる松林大城守従五位親延は京都で摂関となったが、摂家と領地争いをし、寛喜3年(1229)主従9人で京都を退出しました。 信州に落ちてきた9人は佐野で暮らしていましたが、7人が生活苦から盗みを働き、切腹を命ぜられてしまいます。残された親延と従者右近は大田原に居を移し、田畑を開墾して暮らしを立てながら、7人の菩提を弔うための塚を建てたのでした。

文化財・遺産・史跡伴月楼記念館/千曲市桑原(中区)

松代藩士であった関家の邸宅として江戸末期に建てられた武家屋敷で、桑原宿の街道に面して建っています。 同じく松代藩士であった佐久間象山も宿泊したとされ、伴月楼と命名されました。 敷地は広大で、門・主屋・土蔵などがあり、格式が感じられます。 現在は記念館として、象山や幕末の文人たちの貴重な書や作品のほか、江戸時代を物語る武家の生活道具や民俗資料などが展示公開されています。 屋敷の一角には、平成19年(2007)にオープンした日帰り温泉「佐野川温泉竹林の湯」があり、市民の憩いの場となっています。

文化財・遺産・史跡北国西往還と桑原宿/千曲市八幡・桑原

北国西往還は、中山道洗場宿(現塩尻市)から分かれ、篠ノ井宿(間宿)で北国街道に合流する街道です。約80㎞の間に12の宿場があり、「善光寺街道」の名で親しまれています。慶長19年(1610)頃整備され、善光寺参りや伊勢参りの旅人で賑わいました。 街道は、洗場宿からいくつかの宿場を通って、隣り村の麻績宿に着き、猿ヶ馬場峠への山路に入ります。途中,悲恋伝説が残るお仙の茶屋跡を見て、登り終わると峠の頂上にある聖湖に出ます。猿ヶ馬場峠です。峠には村堺碑があり、いよいよ千曲市へ入り、桑原宿に下ります。 道筋には、念仏石、火打石茶屋(名月屋)跡、一里塚の原形が残る中原一里塚、のぞき(大井茶屋)などの史跡があります。この歴史を感じる古道を過ぎると、中原の豪農酒造業和田家の屋敷や七曲松(ななわだのまつ)が目に入ります。そして桑原宿、佐野川沿いにある稲荷山一里塚を経て稲荷山宿に至ります。 善光寺街道ができると桑原宿は伝馬宿となり、地域経済の中心として発展しました。その後、隣接する稲荷山宿が正式に宿場となったため桑原宿は間宿となりました。しかし、猿ヶ馬場峠の登り口にあるため、松代藩の宿場(私宿)としての役割を果しました。本陣柳沢家跡や松代藩藩士関家の建物などがあります。また、江戸後期から明治にかけて養蚕が盛んになり、養蚕に適した採光や通風を行う越屋根を載せた家が現在でも街道筋に点在しており、往時が偲ばれます。 北国西往還は、令和元年10月 文化庁の「歴史の道百選」に選定されました。 近年、歴史道への関心が高まり、街道を歩いて歴史に触れたいと思う人たちが増えています。

文化財・遺産・史跡姨捨の棚田/千曲市姨捨

月の都の中心、さらしな姨捨の棚田は、古来より日本三大名月の里として日本人のあこがれの地でした。 他の2か所の名月の里は石山寺(滋賀県大津市)・桂浜(高知県高知市)です。 この地区(標高460m~560m)の傾斜地には、約1500枚の棚田が有ります。 近世初頭には畑と田が混在する耕作地が始まり、その後16世紀半ばから近現代にかけて、日本を代表する棚田の文化的景観を形成しました。 姨捨の棚田の構造は、土石流が作った斜面上の棚田と上流水源・貯水池としての大池・更級川が有機的に結びついて現在の景観を作っています。 「田越給水」・「ガニセ」・「はぜかけ」などがその特徴です。 ここはまた眼下に日本一の長河千曲川、善光寺平の景観と遠くには飯綱山・新潟県との県境の高妻山・戸隠連峰、志賀高原・菅平、近くに妻女山・有明山・鏡台山・五里ヶ嶺等いずれも心をいやす素晴らしい景色が広がっています。 西行法師が名づけたと伝わる48枚田は、田毎観音を中心に昔の様を残す歴史的な棚田であり、歌川広重の画にも伝わる「田毎の月」は日本人の心象風景としてこれからも伝えられるものです。 H8(1996) オーナ制度・棚田貸します制度創設 H9(1997) 全国棚田サミット開催 H11.5.10(1999) 名勝(田毎の月)農耕地で初めて文化財指定を受けた H22.02.22(2010) 重要文化的景観の「姨捨棚田」に選定 R02.06.10 (2020) 「日本遺産 月の都千曲」選定(姨捨棚田はその中心地) 「日本100名月 姨捨棚田にのぼる月」に認定 ※こうして歴史とともに造り、守られてきたこの里の棚田が今、後継者がいなく維持できない所に来ています。 色々な手段があります、今の世代の我々が、協力してゆくことが大切かと思います。 ご一緒に、姨捨棚田にきて、汗を流して、美味しい「おこびれ」を食べて、眼前の景色を楽しみませんか! 芭蕉始め俳人歌人の愛した月の都に立って一句作ってみませんか! 鏡台山にのぼる名月を楽しみませんか! 水や昆虫沢蟹などと自然との時をすごしてみませんか!

文化財・遺産・史跡川中島合戦 初戦の地/千曲市八幡

ここ八幡は,あの謙信と信玄の十数年にわたる戦いの善光寺平における初戦の地と言われています。 村上義清は天文22年4月9日葛尾城自落で越後へ落ちましたが、4月20日には村上・上杉・高梨等連合軍兵約5000人の軍となって塩崎・稲荷山辺りまで進攻、青柳城に居た信玄は約1600人を迎撃のため麻績経由で八幡に向けて派遣しました。 そして、八幡で衝突又は接触したものと思われます。八幡の何処で、どの程度かは不明でありますが、この戦いは村上軍優勢で1日で終わり、翌日には村上軍は坂木の葛尾城を奪回しました。 姨捨方面から下って来た武田迎撃軍と葛尾城奪回を目指す村上・上杉軍は八幡バイパスの峰の信号辺りでぶつかったのでしょうか。 その翌日23日に葛尾城を奪回し、村上氏は塩田城に入りました。 そしてその後10年を超える両雄の戦いが続くことになりました。 この戦いの記念碑が武水別神社手水舎の西並びに八幡の有志の皆さんの手で平成30年に建立されています。

文化財・遺産・史跡八幡の遺跡群/千曲市八幡

千曲市八幡地区には先人たちが切り開いた生活の跡が数多く残っています。社宮司遺蹟・峰謡坂遺蹟・東中曽根遺跡・東條遺跡などが代表的なものです。 弥生~平安時代の集落遺跡と古墳時代~平安時代の田の跡や居住地跡の東條遺跡からは出土された珠文鐘の一部、内面が墨色処理された土師器、外面に墨書のものも出土しています。 7~12世紀の社宮司遺跡はこの遺跡西方にある東山道支道の通っていた「郡地区」が古代の更級郡衛であった関係の遺跡とみられています。 堀立柱建物、墨書土器、刻書土器、漆紙文書等が出土しています。 また、追善供養塔の様な物でしょうか、国内初の「六角木幢」が見つかっている、石の塔婆の出現以前に木木製品があったことの証明となりました。 平成23年3月 県宝指定 「社宮司遺跡出土木造六角宝幢(しゃぐうじいせきしゅつどもくぞうろっかくほうどう)」 更に木簡の厄除けまじないやのお札として使われたと思われる「庶民将来苻」が見つかっています。

文化財・遺産・史跡霊諍山の石仏神/千曲市八幡

霊諍山は八幡郡地区の大雲寺の裏山に当たる地です。 120基を超える石仏石神、石祠、文字碑、自然石などが有り、また社殿も祭られています。 中でも蚕をネズミから守っている猫神や恐ろしい形相の卒塔婆などが良く知られています。 霊諍山の信仰は、修那羅・御嶽教・神習教の三者がミックスしたものと考えられています。 碑の数は、修那羅系の物が多く、御岳教の物は少なようです。 神道の一つ神習教は明治17年八幡教習所が開かれ、明治25(1892)年霊諍山講社務所が許可された。和田辰五郎(文政8~明治44年)の生家の近くです。 霊諍山名は辰五郎の師,修那羅大天武も使っていたようで、ここからこの名が使われたようです。辰五郎は修那羅山の大天武の死後、中原に戻り行者として生活をしていました。 同じ年開祖とされる御嶽教行者の北川原権兵衛(慶応2~昭和28年)も郡の生家に戻り、布教を始めました。昭和前期までは、農村では医者にかかることも少なく、すぐれた行者は、天狗ともいわれ、薬草などの漢方の智識もあったことから、地域の病気治療や、占い、祈祷、相談等生活の師として頼られていたようです。 辰五郎の師の修那羅山は最後の山伏「修那羅大天武」(大天武は明治5年に死亡)が開いた聖なる場所です。徳川時代から明治前期にかけて神仏混合時代の形態を呈しましたが、当時の名越を得て、祭神賀美観音、木妻大明神、金神、天神、道祖神、唐猫大明神、八幡宮、千手観音、鬼神催促金神、水天宮、弁天宮、子育宮等をはじめ石仏、神像が御鎮座するほか、大小の石詞があり、全国的に有名です。

文化財・遺産・史跡更級郡衛 郡地区/千曲市八幡

八幡村は善光寺平の南端に位置し八幡の峰峰を背負い、千曲川を前にし、古い歴史と、交通の要所として、古来から都との関係も深い土地でありました。この地区は古時は小谷(おうな)の郷に属し、後に更級の庄と言われておりました。郷とは戸数50戸もっていわゆる村の意味です。小谷の郷は京都岩清水の所有地となっていました。ここは信州十郡の中でも最も早くから文化の進んだ地で、聖山を中心とした更級郡の政治の中心「大領」が居た処と記録されております。 その名残を残すものが多々あります ① 部落内が井形に整然としており、おそらく「条里制」の名残と思われています。 ② 土地の名前にはそれらを想像させるものが多くあります。 ・法殿・旗塚・糖塚・堀之内等 ③ ここを通っていた古道は麻績~羽尾~郡~桑原~四宮石川~善光寺 に到る「東山道信濃路」であり、この道の要地でありました。また社宮司遺跡や東條遺跡などもこの更級郡衛が関係していると考えられています。 ④ もう一つ郡内には「元八幡」という小祠が あります。「武水別神社八幡宮」は最初ここに招致された、その後現在位置に移つされたものと思われています。

文化財・遺産・史跡長野銘醸/千曲市八幡中原

長野銘醸酒蔵は、平成26年に国の登録有形文化財に指定されました。 「八幡の七頭」と語り継がれるように八幡の山麓は豊富で、良質な湧き水があります。この水を利用して、元禄2年(1689)に造り酒屋「和田酒店」が創業しました。 現在も酒造りが行われ、「姨捨正宗」の名前で親しまれています。千曲市内では、唯一の造り酒屋(株 長野銘醸)です。 大正5年(1916)建築の事務所棟はじめ12棟の登録有形文化財の建物があり、酒蔵は江戸時代末期の建物です。また、敷地入口にある老松は、江戸時代のガイドブックとも言える「善光寺道名所図会」に七曲松(ななわだのまつ)として紹介されています。

文化財・遺産・史跡郷嶺山と孝子観音像/千曲市羽尾

郷嶺山(ごうれいさん)は県道77号線を若宮方面から更科小学校を経て、姨捨地区に登る羽尾5区地区にあります。ここには昭和36年(1961)建立の「姨捨孝子観音」・「更科観月堂」・「冠着神社里宮」・「さらしなの里展望館」等があります。いろいろな建物・像が建つ前は赤松の点在する山肌で、近在の子供たちの遊び場であり、サデかき場でした。ここは対岸の山々から登るさらしなの名月・眼下を流れる千曲川・夜景そして冠着山の雄姿をみることの出来るこの地区は里人達が古来から守ってきた歴史の地です。 「姨捨孝子観音」は深沢七郎作の「楢山節考」により旧更級村が「親不孝な人間の村」と言われたためこの地生まれの東京在住者「東京更級会」の人々が中心になって建立したと言われています。像と共に、この里に伝わって来た「孝行息子と老人の知恵の話」の碑文が刻まれています。 「更科観月堂」は初代更級村村長の塚田小右衛門氏が村おこしの運動として建てたもので、現在は2代目の建物です。 「さらしなの里展望館」は長らくそば処として、そばにまつわる品を出し、月見の宴など地域の人々に親しまれています。 「郷嶺山(ごうれいさん)」の呼び名については、冠着神社の里宮のある所であり、冠着山に対して里の峰・郷の嶺から来ていることが考えられます。 「冠着神社里宮」冠着神社祭神は月読命(月読尊)月読の命はいざなぎのみことによって生み出されたされ、月を神格化した「夜を統べる神」・月の神とされています。

文化財・遺産・史跡滝澤家住宅/千曲市戸倉・磯部

滝澤家は古くは戦国時代に武田方で村上氏と戦ったと伝えられています。江戸時代に現在の場所に居を構え、組頭などを務めてきた家です。滝澤家住宅の建物群は、萱葺きの外観と屋敷構えが特徴で、主屋幅12メートル長さ22メートル高さ7メートルの萱葺き、一部2階建ての住宅で、一間ごとに柱が立つことや、大黒柱の意識がないことから江戸時代中期の建築です。住宅には現在も所有者が居住しており、内部の公開はしていません。

文化財・遺産・史跡壽高原食品倉庫/千曲市戸倉

戸倉駅前に建つ木造4階建、土蔵造りの大規模な倉庫。幅11メートル、長さ29メートルで、一定の間隔でたくさんの窓を配置した外観は、繭倉庫の建築様式を継承。大正4(1915)年に、戸倉倉庫株式会社によって建てられたもので、周辺地域一帯で作られた繭や生糸を収めたものです。 現在も寿高原食品の倉庫として使用されていますが、内部の公開はしていません。 【平成29年 国有形文化財に指定】 (資料市広報H29・8号)

文化財・遺産・史跡坂井銘醸主屋/千曲市戸倉

坂井銘醸は江戸時代の初期、慶長の頃から酒を造っていたという歴史ある酒造所。数多くの酒蔵と倉の一部に加舎白雄館、夢二絵画館、酒造資料室などを併設。これに母屋・ 萱の庵を加えて構成されています。現在残っているかやぶき屋根の母屋は、宝暦10(1760)年に建てられたもので、230年以上の歳月を経ています。そば処「萱」として営業しています。 寛政蔵では、天明期の俳人の加舎白雄の作品や、竹久夢二がここに滞在したとき残した絵画が展示されています。加舎白雄は、与謝蕪村と共に「芭蕉に帰れ」を目指し、蕉風の俳句を歴史的に定着させた俳人で、東北信に多くの門人を得ました。坂井家の祖先坂井要右衛門兼甫(俳号鳥奴)との親交が深く、江戸時代後期郷土を代表する俳人宮本虎丈とは師弟関係で結ばれていました。 また小林一茶にも影響を与えた俳人です。

文化財・遺産・史跡笹屋ホテル 豊年蟲/千曲市戸倉温泉

坂井量之助(戸倉温泉開祖)は、明治35(1902)年第2時戸倉温泉を開湯しました。量之助は、この新しい温泉に翌年(1903年)「清涼館笹屋ホテル」を開業し、当時珍しかった「ホテル」という名を使用して新しい時代に対応しました。戦前「信州の迎賓館」と称され、多くの賓客、文人、要人などが訪れました。そして、昭和9(1934)年日本建築の伝統と様式ホテルの手法により建てられた数寄屋造りの宿泊棟「豊年蟲」が完成しました。豊年蟲は昭和初期ホテルに滞在しました志賀直哉の短編小説から名付けられました。豊年蟲とは陽炎(かげろう)のことです。 平成15(2003)年国の登録有形文化財に指定されました。

文化財・遺産・史跡岩船地蔵尊/千曲市若宮

大正橋から若宮方面に向かう黒彦団地(昭和47年造成開始)入口近くの県道沿い左側に突き出た「葦が鼻」という高さ5m程の崖上に地蔵尊が祀られています。大化(645~650年)の頃からとの言い伝えがあり、千曲川の対岸へ向けての渡し場の痕跡だとされています。かっての千曲川はこの麓を流れていたことになります。 祀られている地蔵尊は度々千曲川の大洪水に見舞われて流亡した黒彦村の多くの犠牲者を弔っています。 旧黒彦村は、現在の千曲川河川敷の中央部辺りの大きな中洲に非農耕民(商人や多種の技能職人ら)の家多数が集中する都市型の大きな村であったと言われます。水運で栄え少し下流の船山守護所(小船山か鋳物師屋に所在したとされる)への物流拠点であったと考えられています。 しかし慶長7(1602)年の大洪水で集落は押し流されて僅かな生存者は周辺の集落に分散を余儀なくされました。千本柳に祀られている黒彦神社は洪水によって流されて現在の地にあると伝わる。その後若宮、千本柳、徳間の各方面から黒彦河原に向けて何度か復興への開発が試みられたようです。しかし江戸時代の期間だけでも64回も繰り返された洪水によって阻まれ、黒彦村の復活はなりませんでした。

文化財・遺産・史跡石造子安地蔵菩薩立像/千曲市大字上山田城腰

上山田で一番古い石造物といわれ室町時代末期と推定されています。東を向き胸に赤子を抱き婦女子の健康と安産を願う石英斑岩の丸彫りの立像であります。側面に「大日如来」、「教覚法印」の刻字がみられるが宝冠をつけない円頂の大日如来像はありえないので、後世の修験者教覚法印による補刻かと思われます。 石英斑岩の丸彫りの立像。円頂で袖衣をまとっていて袈裟は明らかでありません。右側に錫杖を彫り出していて、左手は宝珠ではなく、左右の手で胸に嬰児を抱いています。嬰児は裸で左向き、嬰児の彫は粗雑で細部は明らかになりません。 以前は現在地より8m下方に安置されていたようですが、昭和20年代になって道路拡幅のため、現在地に移転したとのことです。 像高:92cm、頂頭部 16cm、 面幅 10cm、面奥 13cm、胸厚 11cm、肩張 20cm、 裾張 22cm、裾奥 22cm 【昭和62年市有形文化財に指定】

文化財・遺産・史跡荒砥城 (城山史跡公園)/千曲市上山田

昭和の終わり頃まで、ここには、遊園地・動植物園があり、ロープウェイもありました。 しかし、段々と、その魅力は薄れて、経営が厳しくなり、平成2年閉園。上山田町では、戦国時代「荒砥城」と呼ばれる山城があった事から、竹下内閣の「ふるさと創生1億円事業」で荒砥城の再現を決めました。再現工事にあたっては、愛知県豊田市の「足助城」を参考にして、旧望月産の鉄平石を使った石垣、木造の柵、門、櫓、兵舎,本郭などを再現し、平成7年6月史跡公園としてオープンしました。 荒砥城は見事な造りの山城です。戦国時代の山城に想いを馳せ、ロマンが感じられます。 平成19年NHK大河ドラマ「風林火山」。平成23年NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」でもロケ地として使用されました。本郭は標高590m 麓より220m高く、眺望抜群です。眼下の温泉街、千曲川の流れ、そして、北には、善光寺平、北アルプス。南に坂城、上田方面が拡けています。 荒砥城は、「山田城」・「砥沢城」とも呼ばれ、今から約500年前(大永4年頃)に、この地を治めた村上氏の一族である山田信兼によって築かれたと云われいます。城は、郭が幾つも連なる「連郭式山城」と呼ばれています。この荒砥城と千曲川をはさんだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主村上義清は、武田信玄と戦い2度も勝ち領地を守りましたが、武田軍の圧倒的な軍勢の前に、天文22(1553)年ついに葛尾城は自落し、当時の荒砥城主山田国継は戦死。山田氏は滅亡しました。その後、川中島の戦い(天文22年1553~永禄7年1564)を経て、北信一帯は上杉謙信の後継である上杉景勝が治め、荒砥城には清野氏・寺尾氏・西条氏・大室氏・保科氏・綱島氏・綿内氏の七氏が10日交代で管理させる「荒砥在番衆」を設置しました。 上杉景勝の配下で海津城の副将であった屋代秀正(初代屋代城主屋代国政の後継)は天正12(1584)年、上杉氏に背き海津城を出て荒砥城に篭りますが、上杉軍に攻められ荒砥城は落城し廃城となりました。 毎年10月の第三日曜日には、「荒砥城まつり」が開催されます。 近くには、日本に2か所しかない歴代天皇陛下の肖像画を見学できる「日本歴史館」、善光寺大本願別院「城泉山観音寺」や縁結びの神・和合の神・子宝祈願の「澳津神社」があります。

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