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ちくま大百科

神社・仏閣武水別神社 松田邸・松田館/八幡

松田氏は藤原姓で鎮府将軍藤原秀郷の子孫が相模郡松田郷におり、その子孫が松田氏を称しその子孫が当地に来て八幡七郷を領し八幡宮に仕え「八幡の松田氏」となりました。天文中 村上氏滅びて、武田氏につかえ、その後上杉に仕えました(民部助と名乗る⇒織部佐)。慶長3(1598)年上杉景勝会津に移封織部佐随い神職は弟縫殿助に譲りました。以後神主にて人民を支配するを停められ、神領200石を社僧等分して受領、明治維新まで続きます。明治6年以後は神宮寺の関与がなくなり、松田家と社家により神社の運営がなされています。

神社・仏閣武水別神社 神宮寺別当家/八幡

開山の祖は慈覚大師により貞観6(864)年甲甲正月清浄山神宮寺開山同山の宗本として明治初期までありました。このことから八幡宮は千年以上の歴史が推定されます。 慶長3(1598)年上杉景勝会津に移封織部佐随い神職は弟縫殿助に譲りました。以後神主にて人民を支配するを停められ、神領200石を社僧等分して受領、明治維新まで続きます。 江戸時代までは「神仏習合」の思想で神社近くに神宮寺が建てられ、神社と寺院が一体となっていました。 そして神宮寺の僧侶は神主を上回る権威を持っていました。しかし明治元(1868)年の「神仏分離令」にお堂や塔、仏像経典は近隣の寺院に移され神社からは仏教色が取り除かれました。 お堂は千曲川を筏で下り、現在土口の正応寺の本堂となっています。また家人の話では、上山田東国寺に譲与されているとのことです。 神宮寺の遺跡は広い敷地のみが残されましたが、若干その後をとどめる物としては、本堂前の千曲市の座敷前庭の市指定保存房「松の木」、朱塗りの「稲荷社、天神社、高根社」僧侶が使用したとされる「お籠」等が残っています。 昭和30年頃切られた神宮寺の大杉は現物が無く、写真・絵のみですが、お八幡様お参りに屋代駅を降りた人々が目印にしたとの話も残っています。

神社・仏閣武水別神社 木曽馬の祖となった神馬/八幡

今はいないが武水別神社の中鳥居の手前右側に駿馬がおり、この馬は木曽馬の牡でした。木曽馬はモンゴル原産で⇒朝鮮⇒西暦532年岐阜県中津川(最古の記録)に入り育てられました。農耕馬としてまた古来から山作業の馬として大切にされてきた馬ですが、背が低く、軍用馬として使いずらかった為、軍馬優先の時代に木曽馬は馬匹去勢法が出来、次第に純血種が減ってしまい、昭和18年には純系種種馬も去勢されてしまいましたが、それでも木曽の人々は隠れて繁殖させ細々と血を繋いでいました。戦後木曽の人々は、木曽系の種牡馬を飼育し保存に努めました。そんな中更埴市(今の千曲市)八幡の武水別神社の御神馬として昭和15年奉納された木曽馬が去勢と軍馬徴発を免れていた純系木曽馬「神明号」が発見され唱和25年、種馬として木曽に送られ生涯で700頭もの子を残しました。この昭和26年「神明号」と母「鹿山号」間に生まれたのが「種牡馬」として検査合格し現在の木曽馬の祖となったのが「第三春山号」です。この第三春山号は昭和50年没しましたが開田郷土博物館に剥製が展示されています。

神社・仏閣大雲寺/千曲市八幡

ご本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏。創建は1kmほど下にあった大伝寺と言われており、天正9年現在位置に移転再興し、曹洞宗桑原龍洞院分寺となった。江戸時代は松代藩主真田氏の寺領寄進もあったといいます。 宝暦3(1753)年山崩れがあり、寺がつぶれてしまい、15代良峰恵遷住職が天保15(1844)年頃まで修復しています。 城のような石垣に白壁、後ろの霊靜山と前の大雲寺中池とに囲まれ四季を通じて素晴らしいい景観が楽しめます。特に春4月の桜と、7~8月のハスの花に囲まれた景観が美しい日本的な情緒と華やかさを楽しませてくれます。また秋には赤い曼殊沙華の花も楽しめます。この風景は大正時代にこの地を訪れた、お坊さんにより、遠くインドにも紹介されたということです。 今は、この池に氷は張りませんが、その昔の冬は氷の上のリンクでこの地の子供たちのスケートをするにぎやかな歓声が一日中響き渡っていました。また、電気冷蔵庫のない時代この池から氷が切り出され、冷蔵用として活用されていました。 裏の霊靜山と共に大雲寺自然公園に指定されおり、地区の人々が草刈や道路整備をしてこの景観を守っています。

神社・仏閣長楽寺/千曲市八幡

天台宗の寺院で、姨捨山放光院長楽寺と称し、信濃33番観音霊場の14番札所で、伝導大師作と伝わる秘仏の本尊観世音菩薩は、観音堂に安置され、善光寺に合わせ7年毎に御開帳されています。 八幡宮神宮寺の弟子円心が文化11(1814)年中興開基とされています。これ以前の史記にも記載があり、姨岩の下に開かれた修験堂,草堂が今の様になっていったと思われます。「宝暦3-1753(地誌千曲の真砂)・安永3-1774年(八幡村午地押改本田水帳)等に長楽寺の記載あります。 長楽寺は月の名所として、芭蕉・宗祇を始め多くの文人墨客の憧れの地として愛されてきました。1688(元禄元)年お供に越智越人を連れてここを訪れた松尾芭蕉は「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」の句を詠みました。芭蕉の句は他の句と共に「更科紀行」に収められています。 その後、芭蕉高弟の上田の俳人加舎白雄により、「芭蕉翁面影塚」が境内に建立され、この塚への御参りと、四季の棚田、姨捨の月を見る人々が大勢来訪するようになりました。 長楽寺は姨岩伝説の地として、また謡曲「姨捨」の地として、今も多くの人を魅了しています。長楽寺境内には、俳句・和歌等の石文が百体ほど建てられており、これを探訪するのも楽しみなところです。 姨捨は月の綺麗な所として古来から知られていたが古今集の「我が心 慰めかねつ さらしなや 姨捨山に 照る月を見て」の和歌でこの里の姨捨山の景観、風情情景に都人が思いをはせ、誘われてきました。その中心が姨岩であり、長楽寺です。月の光を浴びると、心を洗われ、「邪気のない、さやけき心」を取り戻すことが出来ます。月の中に自分の全てを見ることが出来ます。そんな月見の中心が長楽寺の観月堂、観月殿、姨岩です。 長楽寺御詠歌「音に聞く 姥捨山に来てみれば 月の都は ここにこそあれ」

神社・仏閣開眼寺/八幡中原

千曲市八幡中原の集落を抜け猿ケ番場峠への道の入り口当たり、長野自動車道とJR篠ノ井線に挟まれたあたりに信濃33番13番札所「恵日山開眼寺」はあります。 慶安4年(1651)京よりタイに仏像を持参し、現在位置より少し東の古屋敷に龍天宗登大禅師(ろんてんそうとだいぜんじ)が開基し、元禄4年(1691)現在位置に2世祖英和尚が再興した。 三体の仏像(本尊の聖観音菩薩、脇侍の阿弥陀如来と地蔵菩薩)は100cm余りの一本造り、全身金色の尊像で、江戸時代初期京の仏師によって藤原時代の古様式に倣い彫られたものと言われ、美しく、静けさの中に荘厳な雰囲気をかもし出しています。 本尊の聖観音菩薩は「日不見の観音」と言われ厨子を開けると不幸があると、信じられていましたが、昭和46年2月本殿屋根瓦葺き替え工事の時に一時ご遷座した所、不思議なことに厨子扉が自然に開いて拝禮するを待つ姿は、「これ菩薩の自ら普く衆生にお光りを与え給はん」とのありがたいお告げと、以後一般公開することになりました。年一回の御開帳は8月3日です。 本堂の「大悲閣は正面が北向きの「北向き観音」です。 本堂の77枚の天井画は建立時に画かれたもので、中国の人物や動物など価値高いものと言われています。前天井掛けられている躍動感豊かな龍の絵は天上絵作家小泉淳作氏作です。(作品は建仁寺・建長寺もあるそうです。)「更級槐安屈」(さらしなかいあんくつ)・・・槐安とは夢又ははかない事 開眼寺は禅寺で座禅を愛する人々の為に「更級槐安屈」名の座禅堂を備え、随時座禅が出来るようになっています。 御詠歌 「開眼寺 後ろは山に 前はよし 北を流るる 志川なるらん」

神社・仏閣水上布奈山神社/千曲市戸倉

神社創建の時期は不明ですが、下戸倉宿の現在地にささやかな社殿を建て、建御名方神(たてみなかたのかみ)を勧請し鎮守と名付け、諏訪社としてあがめ祀りました。その後、諏訪社は、千曲川の洪水で度々流失。現在の神社は、天明5(1785)年から下戸倉が総力を結集して5年後の寛政元(1789)年に完成しました。建物は、諏訪宮大工大隅流「柴宮長左衛門矩重(かねしげ)」の代表作です。 本殿は、一間社流造の建物として大きさが県内随一であります。特に素晴らしいのは、本殿の周りの彫刻の豊富さと見事さにあり、その代表作である「蘇鉄に兎」「波に亀」「上り竜」「下り竜」などダイナミックな彫刻は目を見張るほどです。 諏訪社が、水上布奈山神社になったのは、天保13(1835)年に「水上布奈山神社」として京都吉田家から神社号を允可をうけました。

神社・仏閣戸倉観音堂/千曲市戸倉

戸倉観音堂の本堂は間口4間奥行4間、建築様式は流造り。 屋根は瓦葺の堂で、新戸倉温泉の開拓者坂井直治郎が建立し、この中に木造千手観音菩薩立像と木造薬師如来坐像が勧請安置されています。個人所有で公開していません。この観音像はもともと坂城・日名沢慈眼寺にあったものが、明治36年現在地に勧請安置したものです。坂井直治郎は霊感受け、昭和5年若い頃からの夢であった温泉掘削事業を始め、12年間の努力の末、昭和17年千曲川川東の新戸倉温泉の源泉を掘りあてました。戦時中の資材不足から開湯は昭和21(1946)年になりました。そこで観音さまのご加護に感謝して「戸倉観世温泉」と命名しました。

神社・仏閣柏岩寺薬師堂/千曲市戸倉

鏡台山柏岩寺は、貞享4年(1687)に曹洞宗永昌寺(千曲市寂蒔)の末寺として開山されました。現在(平成17年から)、無住のお寺です。木造薬師如来坐像は薬師堂に安置されています。薬師堂は、柏岩寺の南側地続きにあって、なぜか正面の小壁に菊の紋がついている古い建物です。永禄年間(1558〜1572)に、東山山腹の「上の平」(うえのていら)と呼ばれる「薬師平」から今の場所に移したと伝えられています。 ※1 木造薬師如来坐像(昭和63年千曲市有形文化財に指定) 薬師如来は、古来より医薬の仏さまです。ここの薬師如来は、像高54㎝、幅47㎝の坐像で、造りは前後に剝利だけで造ってあります。したがって、内剝(うちぐり)はなく、わずかに膝裏を剝りぬいてあるにすぎません。円光の光拝、右手の平を正面に向けた施無畏印(施無畏)を結び、左手に薬壺を持ち、蓮華座に安置され、至るところに金箔を施された見事な厨子に納められています。 また、本尊薬師如来は、後醍醐天皇の第八王子「宗良親王」と深い関係あったとの口伝があります。宗良親王は柏王神社の祭神でもあります。 薬師如来信仰は、往時に比べると希薄になっていますが、毎年、11月7日は柏王の伝統のあるお祭り「お薬しゃん」が今も続いています。また、1月7日には初薬師も催しています。 ※2 宗良親王の髻塚 本尊薬師如来は、後醍醐天皇の第八王子「宗良親王」と深い関わりがあったと言い伝えがあります。親王は南朝の勢力拡大を目指して各地を転戦してきましたが、この柏王の地で病に患いました。自らの髻を切って、薬師平にあった薬師如来に供え祈ったところ、霊験あらたかとなり、平癒しました。柏王の住民は親王を信濃宮と崇められ、その髻を埋めて塚を築きました。 この塚は、昔、他の地にあり、欅の大木に接し、小塚の上にあったが、道路拡張により、今の柏王神社前に移したと云われています。神社右に玉垣の囲まれて「宝篋印塔」と「信濃宮髻塚」の石碑があります。碑の表面は、題名の他親王が姨捨山で詠んだ歌と小手指原の戦い(埼玉県)の様子。裏面には親王の伝記が刻まれています。 旧北国街道に、宗良親王の髻塚への道標として「信濃宮髻塚古跡迄弐町」(明治14年再建)があります。

神社・仏閣佐良志奈神社/千曲市大字若宮

延喜式内社です。本殿は、三間社流れづくり、3本の堅魚木と千木を置き、周りをベンガラと黒色に塗られたりっぱな大きな建物です。創建については、いろいろな伝説がありますが、神社の由緒には、允恭天皇の皇子である黒彦王が勧請して、祖父にあたる大鷦鵪命(おおさぎきのみこと=仁徳天皇)を冠着山支峰八王子山に祀ったのが始まりと伝えられています。 その後、仁和3年(887年)(翌年これにより千曲川の大洪水が記録されている。「仁和の大洪水」)の大地震で崩落した複数の神社と共に麓の若宮八幡宮に合祀されました。氏子は、旧若宮村(若桜宮村)、旧黒彦村、旧芝(柴)原村の3村で構成されていました。このうち旧黒彦村については、度々起こった千曲川の大洪水で分散移住。この時、更級郡側は、若宮村に、埴科郡側は、千本柳村に移り住みました。 宝暦6年(1756年)年まで「若宮八幡宮」とされた真言系の神宮寺から現在の社名になったと云われています。 文化年間(1804年~1817年)に箭塚遺跡(せんずかいせき)から発掘された細形銅剣(昭和40年県宝に指定)が社宝となっています。 現在の鳥居は東側に向けて建っていますが、かって、そこは千曲川の流れを背にした裏側でした。古くからの戸倉宿と明治になって開湯した上山田温泉を結ぶ大正橋の架橋で表側になってしまいました。本来の参道は西方の山側の道から入ります。古来、この道は、八王子山・万治峠 越えの道で、多くの通行がありました。 参道に面して、趣のある鳥居があります。扁額は松代藩6代藩主真田幸弘公の直筆です。隣りの覆屋のある社頭碑は、正面が正親町三条実愛卿(さねなるきょう)の書です。側面撰文ならび書は佐久間象山によるものです。実愛卿の姑の柳原夫人より「さらしなの歌」を賜り、これを刻み、栄として建立しました。宮司豊城直友は、京都において実愛卿との知遇がありました。この和歌が、「若宮・羽尾・須坂」の3村合併の時、「更科」の命名の参考になりました。 直友は佐久間象山と親交があり、象山は度々この地を訪れている。文字は、謹厳な隷書体で、社蔵の大幟も象山の名筆であります。 神社では、毎年6・12月のみそかに、「大祓」の神事を行います。12月の大祓には紙製の人の形(ひとかた)をした形代(かたしろ)を清浄な千曲川に流して、厄落としやけがれ祓いして、清めます。

神社・仏閣長泉寺/千曲市内川

天徳山長泉寺は、元和元年(1615)曹洞宗萬照寺(千曲市小島)の末寺として開山されました。その後、火災等の災難にあっが、現堂宇・庫裡は、平成3年(1991)に再建されました。また、聖観音菩薩は、寺の敷地にある六角堂(昭和52年建築)に安置されています。 ※木造聖観音坐像(昭和50年県宝に指定) 聖観音菩薩は,元々戸隠奥の院の本地仏でした。明治初年の廃仏毀釈政策により、一度人手渡りましたが、戸隠講の世話人であり、長泉寺の檀家信徒の努力によって明治20年(1887)長泉寺に寄付されました。 聖観音菩薩は、鎌倉時代末期(永仁6年ー1298年と印刻)に造られ、像の高さは82㎝、全身金箔の寄木造り。優雅な王冠や豪華な天衣を身につけています。像は巧みで、引き締めた上体や裳に深く刻まれた衣文の表現などに鎌倉時代の彫刻に見られる堅実的で写実的な特徴をよく表しています。現在、交通安全守護観音として、信仰を寄せられています。

神社・仏閣明徳寺/千曲市羽尾

真言宗智山派――冠着山(亀慶山医王院)明徳寺 真言宗京都天国山知積院の末寺 本尊 不動明王 創建 徳冶2年(1307年)鎌倉時代末 権少僧都專慶の開山、当初(現在寺跡地籍) その後寺屋敷に移転 天文年中(1532~1554年)村上氏の臣、林能登守常重の合力により中興開山(1646年頃) 享保年中(1720年頃)火災焼失、現在位置に移転再建されました。

神社・仏閣瘡守稲荷神社/羽尾

瘡守の瘡(かさ)は皮膚病や梅毒、疱瘡等の病気を指す文字です。医学の未発達な昔、この地方に流行った伝染病から人々を守るために、あるいは早く病気が治るように造られた神社と思われます。「社殿の前に鎮座する、狐の像は稲荷神社の神使(しんし)、狛犬(こまいぬ)は高麗時代に渡って来たもので、みなさんご存知のいろいろな形の像があります。 沖縄のシーサ、エジプトのスフインクス等も類似品でしょうか? 狛犬は阿吽の形が一般的ですが、この神社の狛犬は何かを咥えています。何でしょうかね? またこの位置は、明徳寺北東にあたり寺の鬼門除けとして建てられたものと推定されています。 この近くにある本田阿弥陀堂 本尊は木造の阿弥陀如来(伝、江戸時代初期の造仏)元禄10年(1697年)堂宮栄改の記録あり安政6年(1777年)出火、現建物はこの後建設代々の住職は塩崎天用寺から弟子僧が来ていた、明治6年(1873年)堂廃止、4区公民館としても利用されました。「内部拝観ができます。」

神社・仏閣波閇科神社/千曲市大字上山田字城山

延喜式内社。祭神は天照大神、相殿は豊受大神、日本武尊。 伊勢神宮と同様の建築様式をもつ。(古式の神明造り)。 神殿は覆屋の中にあって、切妻平入の三間二面、柱は円柱、正面中央に両開き板扉をつり他の三方は横板張りで、屋根は萱葺きとし、妻側両側に棟持柱を立て棟木を支え、妻の破風板が伸びて千木となり、屋根妻に鞭懸4本づつを出した神明造り形式の社殿です。千木は外そぎで、棟上に勝男木を載せていて、伊勢皇大宮外宮の社殿形式をとっています。(古式の神明造り)永禄年間(1560年頃)兵火にかかり炎上焼失か?文化10(1813)年11月再建) 波閇科神社は、古くは「ハベシナノカミノヤシロ」と呼ばれごく普通の村の地母神を祭った社でした。 神社名には古代の村落地名を付けたものが多い。「波閇科」は「ハバ」「ハベ」からきていて、これは段丘状の段の辺りをさしていることから波閇科の名は自然地名に基づいてつけられたとされています。 また、日本武尊が蝦夷征伐の途中この地により「波閇科」と名付けたとも言われています。 本殿の周囲には東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武の四神が本殿を守っていたが、盗難にあい現在は存在しません。 末社六社が本殿に向かって右側の山の斜面に祀られています。 いずれも創建年月不詳 宇佐八幡社(応神天皇、誉田別尊) 蚕神社(継体天皇、大男迹尊) 住吉社(表筒男命、中筒男命、底筒男命) 金毘羅社(崇徳天皇、大物主神) 稲荷社(蒼稲魂命)天神社(菅原道真)

神社・仏閣智識寺・大御堂/千曲市上山田八坂

真言宗 智山派 清源山花蔵院智識寺と称し、本尊は大日如来。総本山は智積院(京都市)。 智識寺の「智識」とは「智」の一文字が仏の智慧を表す文字であり、この「智」に「識」が加わると仏縁を結ばせる物や人のことを指す言葉となりました。これは人々の協力を意味します。つまり智識寺は、一人の有力な豪族が建てた氏寺ではなく、名もなき庶民までもが分相応にお金や努力を出し合い皆で守っていこうという奉仕の心によって建てられた「民衆全体のための寺」という意味です。もともとは冠着山の麓にあったとも云われます。慶長14(1609)年に現在地に移しています。 本堂には昭和42年に千曲市有形文化財に指定された2つの菩薩立像が安置されています。 また、境内には木造釈迦如来坐像が安置されています。 ※1 大御堂 桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)四間、単層四柱、寄棟造、茅葺、建坪22坪3合8勺天平12年3月(740年)聖武天皇(第45代天皇)の勅願所として大御堂を建立。その後、大同2年(807)に坂上田村麻呂が御堂を修理。建久9年(1209)には源頼朝が御祈願所と定めて上山田村に七堂伽藍を建て仁王尊と仁王門を寄進し清源山智識寺と称せられたと云われます。 もともとは冠着山の麓にあったとも云われます。 慶長14年(1609)に当初あった冠着山から現在地に移しています。江戸時代に入ると歴代松代藩主から庇護され文政年間(1818~1830年)には大御堂の修復を行っています。 現在の本堂である「大御堂(おおみどう)」の創建は1573年。室町時代の特色を残す造りで、当時の様式を継承する貴重な建物として明治40年(1907)に国指定重要文化財に指定され、昭和25年法改正により重要文化財となりました。 大事な観音様をお守りすることから天井に竜の絵が描かれている。これは使用されている色などから江戸時代の作とみられています。 ※2 木造十一面観音立像 平安時代後期に行基菩薩(平安時代の高僧)が自ら彫り込んだと伝わる仏像で像高306cm、一木造(1本の木から削り出されている立木観音像)、欅材、昭和12年(1937)に国指定重要文化財に指定され、昭和25年法改正により重要文化財となりました。 ※3 木造聖観音菩薩立像 平安時代の12世紀に彫刻されたと推定されるもので等身大の大きさで、像高168cm、桧材、寄木造、素地。昭和62年(1987)に千曲市指定有形文化財(彫刻)に指定。 ※4 木造地蔵菩薩立像 享保年間(1716~1735年)で江戸時代中期のものです。等身大の大きな仏像。像高159cm、桧材、寄木造、玉眼、素地。 昭和62年(1987)に千曲市指定有形文化財(彫刻)に指定。 ※5 木造釈迦如来坐像 室町時代後期に彫刻されたと推定されるものです。しかし、釈迦如来としては像高158cm、(桧材、寄木造、漆箔、彫眼)と大像でその彫刻も丹念に作られています。 もともと智識寺境内の端の弥勒堂に安置されていました弥勒菩薩が、何らかの都合により無くなり、代わりに安置されたものと伝えられています。 昭和62年(1987)に千曲市指定有形文化財(彫刻)に指定。 ※6 仁王門 室町時代に建立されたもので寄棟、茅葺、三間一戸、桁行三間(5.5m)、梁間二間(3.3m)、両側には木造金剛力士立像(阿形像:像高2.15m・檜材・一木造・吁形像:像高2.1m・檜材・一木造。 作者は不明で室町時代制作と推定されます。)を安置し千曲市有形文化財に指定されています。 【紫陽花寺】 境内には紫陽花の花が所せましと植えられています。6月から7月にかけては色とりどりの花が咲きほこり、訪れる人達を楽しませてくれます。

神社・仏閣清水神社/千曲市大字力石

祭神:主神豊宇気比売神(とようけひめのかみ)、相殿神建御名方命(たけみなかたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。 当神社は社伝によると奈良時代からあり、古くは新山村八頭山麓に氷清水という冷泉が湧きでる水口にあり、そこに豊宇気比売神を祀ったものでした。宝永2(1705)年この地に遷されました。 明治41(1908)年当神社に「桜の宮」と「北の宮」の二社が合祀されました。 現在清水神社は「力石さん」とも呼ばれ、癌封じの神さまとして信仰されています。 拝殿は天明5(1785)年造営であって木造蒼瓦葺きで間口5間、奥行3間中央格天井には山崎洞湖作の天井画が描かれています。本殿は天明5年間口2間、奥行3間苔羅葺き、総丹塗です。 〔昭和62年市有形文化財に指定〕

神社・仏閣如法寺/千曲市大字力石

真言宗智山派。本尊:聖観世音菩薩。 平安時代に岩井堂山の中腹に薬師如来像が祀られ、薬師様とした村人の信仰を集めていました。天平2(730)年山の麓に行基の作と伝えられる聖観音菩薩と金胎(こんたい)大日如来が安置された堂宇があったのが開祖と言われています。慶長3(1598)年に村中に伽藍を移転し真言宗新義派法華寺末寺として継承されました。 当寺には、力石に生まれた幕末の剣豪塚田孔平、江戸時代の画家山崎洞湖、力石北の宮の開拓者塚田五左衛門等の墓があります。 ※ 木造虚空蔵菩薩坐像 【昭和62年市有形文化財に指定】観音堂には、木造虚空蔵菩薩坐像が安置されています。当像は頭躰共木(とうたいともき)の一本木造りで、像高60cmと小像ですが、力量感のある像で、地方作としては珍しいです。

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