宮内墨斎/埴生(中区)宮内墨斎は文化8年(1811)現在の埴生中区の中村神社の神主、能登正政辰の嫡男として生まれました。幼少の頃より絵画を得意とし、戸倉の宮本虎杖庵八朗などに師事しました。さらに、切磋琢磨せんと師を求め、当時の画壇の大御所である谷文晃の門を叩きました。文晃は墨斎の筆画を試したところ、既に一家を成していると非常に高く評価し、墨斎はその名を世間に轟かせました。長じて、父の神職を継ぐ傍ら、ますます画墨の道に没頭し、修業の旅に出ることも度々ありました。郷里に落ち着くと、この地に「画遊楼(がゆうろう)」を開きました。「画遊楼」は中村(埴生中区)の公民館が建設されるまで、「倣千館(ほうせんかん)」または「倶楽部」などと称して村人の教養文化の向上のため交流の場として使われてきました。門人を始め村人や近郷の人々と共に風雅の道に遊び、その墨斎の教えを受けて創立された「天狗会」は今も続いています。墨斎の水墨画の画題は、室町水墨画の伝統を踏まえた山水人物画、神山図等が主に描かれています。墨斎の作品は中区を中心に多くの家に残されていて、中でも徳応院所蔵の「寒山拾得図」は逸品といわれています。