屋代田んぼ/千曲市屋代古代において人々の生活が稲作中心となった弥生時代、多くの人々が平地の屋代に移り住み水田を作り始めました。これが屋代田んぼです。
人々は千曲川の周り(自然堤防)に住み、その南側の低い地(後背湿地)を水田にしたのです。
この屋代田んぼは広大な水田地帯に発展し、稲作の経済力を支えに、屋代田んぼの支配者は大きな勢力を持つようになりました(豪族と呼ばれます)。「古代科野のムラ」を成立させたともいわれ、弥生時代に続く古墳時代には、権力を持った「豪族のお墓」として「森将軍塚古墳」が造られました。
このように、屋代田んぼと森将軍塚古墳とは深い関係があります。
平安時代になると、屋代田んぼは公地公民の制に基づく条里水田として発展しました。屋代田んぼの下(60~100㎝程)には、ごばん目状の条里制水田跡が確認されています。