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ちくま大百科

文化財・遺産・史跡一重山/千曲市屋代

屋代の街中にあって地元の人々には大変馴染みの深い山です。標高は458m。 頂上から北側に向かって屋代氏が築いた山城、屋代城の跡が残っています。 山の北側麓、県道392号線沿いが一重山入り口で、階段を登り切った所には「鐘つき堂」や「不動尊堂(山の堂)」が建ち、一重山不動尊と鼻取り地蔵尊が祀られています。 「鐘つき堂」の鐘は平成の中頃まで「やまんどうの鐘」として毎日「時(とき)」を知らせていましたが、現在は使われていません。 また屋代民話「鼻取り地蔵」は、この鼻取り地蔵尊にまつわる伝説です。

文化財・遺産・史跡屋代田んぼ/千曲市屋代

古代において人々の生活が稲作中心となった弥生時代、多くの人々が平地の屋代に移り住み水田を作り始めました。これが屋代田んぼです。 人々は千曲川の周り(自然堤防)に住み、その南側の低い地(後背湿地)を水田にしたのです。 この屋代田んぼは広大な水田地帯に発展し、稲作の経済力を支えに、屋代田んぼの支配者は大きな勢力を持つようになりました(豪族と呼ばれます)。「古代科野のムラ」を成立させたともいわれ、弥生時代に続く古墳時代には、権力を持った「豪族のお墓」として「森将軍塚古墳」が造られました。 このように、屋代田んぼと森将軍塚古墳とは深い関係があります。 平安時代になると、屋代田んぼは公地公民の制に基づく条里水田として発展しました。屋代田んぼの下(60~100㎝程)には、ごばん目状の条里制水田跡が確認されています。

文化財・遺産・史跡屋代城跡/千曲市屋代

15世紀後半、村上義清の一族だった屋代氏が一重山に築いた山城です。山頂から北に向かって南北に12の郭(=くるわ・曲輪、軍事目的の平地施設)があり、その間は堀切や竪堀の防衛施設で遮断されています。郭の周囲斜面は、腰曲輪(削平地)が雛壇状に設けられました。このお城は一重山全域に広がる山城でしたが、主郭から南側は採石により削られ、消失しました。 天文22(1553)村上氏の居城、葛尾城が武田信玄によって攻め落とされた時、屋代氏は武田方に寝返って、荒砥城に入ることになります。永禄2年(1559)、屋代城は廃城となりました。

文化財・遺産・史跡屋代小学校旧本館/千曲市大字屋代

屋代小学校は明治6年(1873)矢代宿の本陣跡に開校したのが最初で、この建物は現在も残っていますが、その後、明治21年(1888)屋代尋常小学校として現在の地に新築されました。 明治の文明開化を象徴し、学校建築の代表ともいえる擬洋風建築は、近郷に類を見ない立派な建物で、屋代の経済力と人々の教育に懸ける情熱、意気込みの表れと言えます。県下に現存する明治の学校では7番目に古い学校です。 築91年を経て昭和54年(1979)、校舎が全面改築される際、それまでの校舎の本館部分だけは文化財として残され、丁度、築100年目の昭和63年(1988)に更埴市教育資料館として開館しました。 ・木造2階建て。外壁は下見板張り(板を重ねて貼る)で水色のペンキ塗装。建物は尺貫法で建てられましたが、窓はメートル法使用で、幅が1mとなっています。また、ギヤマン窓といってガラスを使った洋風窓です。 ・玄関の張り出し部分には車寄せがあり、上はベランダになっています。天井は網代天井。三角破風(はふ)(三角ペグメント)は花と唐草で飾り、柱としてギリシャの神殿建築のような円柱を使っています。

文化財・遺産・史跡森将軍塚古墳/千曲市森

森将軍塚古墳は、今から1650年ほど前の古墳時代中期(4世紀中頃から後半)に造られ、当時「科野のクニ」を治めていた豪族(大王)の墓と考えられています。森地区にあることから森将軍塚古墳と呼ばれています。 この古墳は、全長が約100mの前方後円墳で長野県では最も大きくかつ最古級の古墳です。裾テラスや周辺からは、埴輪棺・箱形式石棺・円墳など併せて100近い小さなお墓が見つかっていて、昭和46年(1971)には国の史跡指定を受けています。 古墳は上から見ると「く」の字型に折れ曲がったいびつな前方後円形をしています。山の尾根に造られた古墳は尾根いっぱいに造られており、整った形の古墳よりも大きな古墳を造ることに重要な意味があったと考えられています。 後円部で見つかった石室の面積は広く、竪穴式石室としては日本最大級のものです。石室は調査後、元に埋め戻してあり、墳頂では見ることができませんが、麓の森将軍塚古墳館では精密実物大模型を見ることができます。墳頂では、157個の埴輪が発掘調査の結果に基づいて並べられてます。 古墳は長野県千曲市有明山の尾根標高490m、平地から130mの地点にあり、墳頂からは善光寺平が一望できるのをはじめ、戸隠連峰、北アルプス、千曲川、戦国時代に川中島合戦の舞台となった川中島古戦場などの景色を見渡すことができます。 石室の副葬品はそのほとんどが持ち去られていたようですが、残された品の中から長野県内では唯一の三角縁神獣鏡の破片などが見つかっています。

文化財・遺産・史跡埴科古墳群/千曲市森・屋代・倉科・土口

古墳は今から1700年前、3世紀の後半から7世紀にかけて造られたお墓です。 千曲市内では消滅したものを含めて190基の古墳が確認されています。 埴科古墳群は千曲市にある4つの前方後円墳の総称で、いずれも主体は竪穴式石室です。森将軍塚古墳は昭和46年(1971)に国の史跡に指定され、有明山将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳は平成19年(2007)に追加指定され、埴科古墳群となりました。 有明山将軍塚古墳は、全長36.5mの前方後円墳で千曲市では森将軍塚に次いで古く、4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定されています。埴輪はなく、すでに盗掘を受けていましたが勾玉やガラス玉、よろいの一部と考えられる鉄片などが出土しています。 倉科将軍塚古墳は、全長83mの前方後円墳で長野県では3番目に大きい古墳です。5世紀前半の築造と推定され埴輪が並べられていました。前方部と後円部に竪穴式石室がありました。盗掘を受けていましたが、ほぼ完全な形の鉄製の短甲(よろい)や剣、刀などが見つかっています。 土口将軍塚古墳は全長67m、千曲市では最も新しい前方後円墳です。5世紀中ごろの築造と推定され、後円部に2つの竪穴式石室が並んで設けられていました。盗掘を受けていましたが、埴輪や鉄製の短甲が見つかっています。

文化財・遺産・史跡北国街道、矢代宿・戸倉宿/千曲市屋代、戸倉

江戸時代の始め、最初の五街道が制定された後、「脇往還」として北国街道が制定されました(1603頃)が、その後の見直しで慶長16年(1611)、屋代が宿場に制定されました。北国街道「矢代宿」成立の始まりです。(「矢代」は、江戸時代の始め、検地の際に検地帳に誤って記載されたのが原因で、明治5年正式に「屋代」に戻るまで使用されました) 矢代宿は北国街道(追分~高田)と北国松代道(矢代~善光寺)の分岐点として重要な役割を持つようになっていきます。本陣、脇本陣、問屋2件で構成され、参勤交代の大名行列や善光寺参りの人々、佐渡の金銀を運ぶ人々で大変賑わったであろうと想像されます。 明治3年(1870)、宿場制の廃止に伴い、本陣、脇本陣は廃止されましたが、当時の面影を残す桝形構造の道路は現在も主要道路となっています。 明治21年(1888)信越本線開通と共に急速にさびれていきました。  一方 戸倉宿はほぼ同じ頃設けられたましたが、千曲川の氾濫水害を避けるため、上戸倉宿が設けられ、上・下戸倉宿が一体となって宿場機能を果たしました(合宿)。その後 旅籠屋は下戸倉宿に発達し、寛保2年(1742)〜宝暦7年(1757)頃旅籠屋への飯盛り女の抱え入れが許可されました。安政3年(1856)総軒数194軒うち旅籠屋38件茶屋18軒となり繁栄した様子が伺えます。天保10年(1839)の銘のある、下戸倉宿の飯盛女52名の名を刻む石造夜灯が水上布奈山神社境内に献灯されています。

文化財・遺産・史跡雨宮の渡し/千曲市屋代

16世紀半ば、北信濃の支配をめぐっての甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信の戦いは、川中島合戦(1553~1564)と呼ばれますが、4回目の戦い(1561)の時、「妻女山」に布陣していた上杉謙信は 武田方、海津城から炊飯の煙が上がるのを見て、相手の策略「啄木鳥(きつつき)戦法」を察知し、夜半ひそかに人馬ともに妻女山を下り、千曲川の浅瀬を渡って翌早朝、八幡原の武田本陣を攻めたと言われます。その渡河地が「雨宮の渡し」です。 当時は戦況を左右するほどの重要拠点だったはずが、千曲川の流れは北側に移り、長い間、ここに何の面影もありませんでした。が、昭和13年(1938)、合戦から約380年を経て、「雨宮の渡し」の地として何とか保存しようと、謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ「頼山陽」(幕末の儒者)の漢詩碑を建て、史跡公園としました。園内には、合戦模様を示す案内板も建っています。

文化財・遺産・史跡佐久間象山大砲試射地/千曲市生萱

松代藩士佐久間象山は兵法学者、思想家として幕末の江戸で活躍しました。 嘉永4年(1851)春、藩領だった生萱村試射場で大砲の試射を行いました。 発射された弾は象山の予想を遥かに越え、一重山を飛び越えて天領、小島村の満照寺の境内に落ちてしまったと云われています。 現在試射地として、沢山川沿い生萱の本誓寺橋(ほんせいじばし)の傍に碑が建っています。

文化財・遺産・史跡土口の石垣/千曲市土口

 土口村は、北は頂に倉科将軍塚がある北山を境にして岩野村(長野市松代町)と、東は堂平を境に清野村(長野市松代町)、南は東山を区切って生萱村と三方を山に囲まれ、西は耕地が開けて沢山川(生仁川)をはさんで雨宮村に接しています。沢山川が千曲川に合流する地点に位置し、北国脇往還沿いの集村であります。矢代用水堰の流末にもあたり、豪雨や長雨続きで千曲川が洪水になるたびに大被害を受けた村です。  土口は千曲市の中で標高の低い地域です(標高353m)。集落は自然堤防上にありますが、千曲川や生仁川の氾濫で、たびたび水害を蒙ってきました。土口ではその対策として明治から大正五年頃にかけて、居宅・物置・土蔵などの地盤上げが行われました。(「雨宮県村村史」)  しかし、土口の北辺の笹崎の川幅は200mほどと狭く、河床勾配が緩やかなため、耕地の浸水は免れませんでした。  千曲川改修工事の際に、生萱に採石工場が設置され、馬車が土口を通って千曲川の工事現場へ石を運びました。雨宮・横田間は堤間を狭めたため大量の土砂を掘削しました。この土砂は新堤防に使われました。土口の西側、雨宮の北側にある広い畑地は、いわゆる起返しの地籍です。厚い砂壌土に覆われていますが、新堤防が築堤されるまでは堤防がありませんでした。そのため洪水による畑地の水害は度々発生していました。  新堤防は、この畑地の大部分を堤内に残して構築されました。また千曲川が増水した時に逆流する生仁川には水門が作られました。生仁川水門は高さ2.3m、幅3.3m、長さ18m余の鉄筋コンクリート三連のもので更級・埴科地方では最も大きなものでした。大正12年(1923)に着工し、昭和2年(1927)に竣工しました。

文化財・遺産・史跡寂蒔水除土堤跡/千曲市 埴生(寂蒔)

この史跡は市道埴生線(北国街道)寂蒔の上町(寂蒔集会所横)にあり、しなの鉄道線と隣接した所にあります。 千曲市の史跡として、千曲市教育委員会は次のように説明しています。 「この土堤は。千曲川の反乱から田畑や家屋を守るために、元禄6年(1693)寂蒔、鋳物師屋、打沢、小島の四ヶ村によって築かれたものです。市道埴生線(北国街道)と土堤が交差する所は、非常時には土のうや石で道の部分を埋めてひと続きの土堤として水害を防いだものです。 当時の四ヶ村民の水難に対する苦労と、工夫がしのばれるこの土堤は、この地域にとって貴重な文化遺産です。」

文化財・遺産・史跡稲荷山城址/千曲市稲荷山(本八日町)

戦国末期の天正10年(1582)、3月に甲斐の武田氏が滅亡し、6月に本能寺の変により織田信長が死去して、北信濃の支配に変化が起こりました。 いち早く越後の上杉景勝が出向き、松本(深志城主)の小笠原貞慶の侵攻に備えて、千曲川河原の葦やぶに東西155m 南北170mの平城を築きました。その際縄張りの中に白狐が飛び込んできたことからこの地を稲荷山と名付けました。 城の西側に大路を通し人を移り住まわせて城下町ができました。これが稲荷山の歴史の始まりです。桑原村のはずれにできた稲荷山でした。 現在はこの稲荷山城の櫓(やぐら)跡と見られる場所に、「稲荷山城址の碑」がひっそりと置かれています。

文化財・遺産・史跡稲荷山宿本陣/千曲市稲荷山(本八日町)

江戸時代の元和元年(1615)、一国一城令により稲荷山城は廃城となりました。 本丸館は代官所となり、寛永10年(1633)から城主須崎三河守の娘婿であった松木家が稲荷山宿の本陣と問屋を務めるようになり、代々続いていきました。 本街道ではないため本陣といっても大名の参勤交代時の宿泊はありませんでしたが、善光寺街道最大の宿場として人の往来が多く、役人の宿泊や問屋として公文書の運搬など仕事は多かったといいます。 松木家は、幕府より無年貢・無役の田畑をもらい、苗字帯刀を許されて、御目見え以上の家格を持っていました。 嘉永元年(1848)に建築された四脚の冠木門と本陣取次の間は、現在も当時の姿をとどめています。 肥沃の地であった更級四藩は上田藩の飛び地となっており、稲荷山宿は千曲市では唯一の上田藩領でした。

文化財・遺産・史跡重伝建のまち 稲荷山/千曲市稲荷山

稲荷山は、江戸時代には善光寺街道最大の宿場町、明治期には県内有数の商人町として栄え、重厚な土蔵造りの商家や蔵などが建てられました。現在も江戸末期から昭和にかけて建てられた商家が数多く残り、『多様な建築群が残る、善光寺街道の商都』として価値が高いとの評価を受けて、平成26年(2014)12月、文化庁より国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。 江戸末期の善光寺地震後に再建された町内には、防火目的の厚い土壁・うだつ・軒蛇腹や、耐震目的の亀甲積みの石垣と直方体の土台石、また経済力を示す瓦屋根と大きな鬼瓦・装飾性の高いなまこかべ、などがあちらこちらで見られます。 ぜひ選定区域内をゆっくり歩いて、お気に入りの建物を見つけてください。 築100年を超える建物の老朽化と空き家化が目立ち、早急な保存計画が課題となっています。

文化財・遺産・史跡八日町のお地蔵さん 河原小路のお地蔵さん/千曲市稲荷山(上八日町・荒町)

稲荷山には歴史のあるお地蔵さんが各所にあり、今でも区などでお祭りをして守り続けています。

文化財・遺産・史跡稲荷山地区の古墳(塚穴古墳・一本松古墳)/千曲市元町・荒町

稲荷山篠山の「陣ケ窪」と呼ばれている山腹にある古墳です。 6世紀後半から7世紀にかけて造られたと考えられ、真南に向いて開口している横穴式石室を持つ円墳で、古墳も石室もよく残されています。 玄室は完存していて長さ5m、高さ2.5m、奥壁幅は2.7mあり、天井は大石5枚、奥壁は大石2枚で構成されています。副葬品等はなく、埋葬人物も不明。 昭和50年(1975)に更埴市(当時)の史跡に指定されています。

文化財・遺産・史跡義仲鞍掛石・舟繋石・馬繋石/千曲市稲荷山(荒町公民館南側)

木曾義仲(源義仲)は源頼朝のいとこにあたり、木曽(あるいは朝日村)に住んでいました。平家打討を命じられて挙兵し、養和元年(1181)越後から押し寄せてきた平家の大軍を横田河原(篠ノ井)で打ち破り勝利しました。 義仲はこの戦いに向かうため稲荷山篠山の陣ケ窪から一気に駆け下り、千曲川の河原(現在の荒町)で馬や兵を休ませるため小休止を取りました。この時鞍をはずして掛けたとされる石が、のちに「義仲鞍掛石」呼ばれ、現在まで残っています。

文化財・遺産・史跡善光寺地震供養塔/千曲市稲荷山(荒町)

江戸末期の弘化4年(1847)3月24日(旧暦)、北信地方一帯をマグニチュード7.4の大地震が襲いました。これを弘化地震あるいは善光寺地震と呼んでいます。 善光寺街道最大の宿場町、市場町として栄えていた稲荷山でも多くの建物が倒壊する中、あちらこちらから火災が発生して町並みはほとんどを倒壊焼失し、壊滅的な被害となってしまいました。家屋の倒壊焼失は220戸、死者は464人と記録されています。 ちょうど善光寺御開帳の最中であったことから、宿泊していた旅人180人も犠牲となっています。その遺骸は荼毘に付されて湯ノ崎山のふもとの墓地にまとめて埋葬され、上田藩が被害の状況を刻んだ大きな供養塔を建てて冥福を祈ったのでした。 今でも近所の方が花や香を絶やさずに供養を続けています。 宿場は地震直後から経済力と稲荷山商人魂を持って復興に取り組み、明治期の繁栄へと繋がっいきました。 この地震後に建てられた火事や地震に強い土蔵造りの建物が現在まで数多く残っていることから、平成26年(2014)、稲荷山は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

文化財・遺産・史跡西京街道道標/千曲市稲荷山(治田町)

治田町交差点に立つ約2mの大きな道標で「右 西京街道 左 八幡宮道」と刻まれています。明治10年(1877)の建立。 稲荷山は長野(善光寺)、松本、上田、小諸を結ぶ交通の要衝でした。 中山道の洗馬から分かれて善光寺へ向かう道を北国西往還=善光寺街道と言いましたが、この道を京・伊勢へ向かう時は西京街道と呼んだのでした。 善光寺参拝の帰りや伊勢参りを目指す人にとっては、「西京街道」の道標は京にも通じる道として心の高まりを誘ったことでしょう。

文化財・遺産・史跡山丹/千曲市稲荷山(中町)

明治から大正にかけて県下屈指の呉服商としてたいへん繁盛しました。土蔵造りの主屋は見世蔵(みせぐら)と言い、道路に面して店がありその奥に住居がある造りになっています。 欅をふんだんに使い、2階には客間など蔵座敷があります。見世蔵の後ろに中庭を配し、更に8つの蔵があります。そのすべてが完全な形で残されていて、現在も家人が暮らしています。 当時は土壁の上に白い漆喰を塗ることが豪華とされましたが、山丹は幕末の江戸の豪商の間で流行った「江戸黒」と呼ばれる、白漆喰の上にさらに黒漆喰が施されている贅の限りを尽くした仕上げとなっています。 明治10年(1877)の建築で、亀甲積みの石垣の上に直方体に切った土台を据えた耐震工法や、軒下や窓の戸まで分厚い土壁で覆っている耐火工法などを見ることができます。 稲荷山の隆盛時を物語る代表的な建物です。

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